知識は人類共有の財産であると誰かが言っていた。古代ギリシア哲学の研究者であったと思う。私もそうだと思う。
いっぽう、20世紀以降の資本主義社会ではそうではない。知的所有権という考え方がある。それは、知識さえ私的に所有でき、所有者以外は無償で知識を使用できないとするものである。
約10年前、日本政府がTPP(太平洋を取り巻く諸国の経済連帯協定のこと)を推進したとき、知的所有権を近隣のアジア諸国に守らすことが目玉であった。そのため、日本は農産物の関税をとりはらっても良いと主張した。
私が子どものとき、偉人物語の一人に電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルがいた。大人になって、ベルの実像を知った。「優秀」な実業家でどんどんと他人の発明を買い取り、それによって、ベルは自分の会社を通信事業を独占する会社に仕上げた。いわゆるベル研である。
似たような作られた偉人にトーマス・エジソンがいる。彼は「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言で有名であるが、研究開発を組織化しただけでなく、やはり、発明を買い集めた。
確かに、20世紀のアメリカの技術的活力は特許を中心に展開された。
しかし、それでも、私は、知識を全人類の共有財産だと思う。エイズが世界に蔓延したとき、エイズの薬の特許があるため安く薬を作れず、貧しい後進国で人びとがエイズで死ぬのを見殺しにするしかないという問題が生じた。
今回の新型コロナだって、知的所有権の問題がなければ、日本でファイザー社と同じRNAワクチンを製造できると思う。
知的所有権より、もっと意味不明で怖いのが、経済安全保障である。知的所有権は使わせない知識の範囲が明確化され、しかも、使わせない期間が限定されている。経済安全保障は、その使わせないとする知識の範囲が曖昧である。
数年前に、アメリカ政府はHUAWEI(ファーウェイ)の製品を使わないよう、自由主義陣営諸国の政府に訴えた。理由は安全保障である。本当はHUAWEIの製品がアメリカの製品より優れており、それに経済的な脅威を感じたからである。知的所有権では、中国の技術的優位を抑え込めないと考えたからである。
知識とは、それを活かす人びとがいるかぎり、広がることを防げない。それは本来望ましいことではないか。
きょうの朝日新聞を読むと、中国からアメリカに留学する人びとを制限するとか、アメリカ人が中国で教育したり研究したりすることを制限するとかが書かれている。
明治時代に日本政府が「和魂洋才」と言って、「日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていく」としたが、民主主義や社会主義が日本に入ってくるのを抑止できなかった。
ものごとの考え方に交流があることは良いことである。
科学技術の知識は人類の生活水準を底上げするし、科学技術に限らず、いろいろな考え方が混ざり合うことは、人類が新しい生き方を見つけ、資本主義のもっている欠陥を解決するかもしれない。
12月6日の岸田首相 の所信表明演説で、「世界各国が戦略的物資の確保や重要技術の獲得にしのぎを削る中、経済安全保障は、喫緊の課題です」と言っているが、これはオカシナことであり、知識はもともと私的所有にするに無理なものであるし、一国だけがいつまでも技術的に優位であることはできない。知識の共有で全世界が豊かになれば、それでよいのではないか。
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