3年前、プレミアムカフェ「宮沢賢治への旅」番組で、童話『どんぐりと山猫』の1節が気になった。
『どんぐりと山猫』は一郎が山猫の裁判に招かれるという童話である。どんぐりたちは誰が一番偉いかを争っていて、山猫はその裁判官である。
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一郎は「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」と山猫に助けをだす。
山猫は「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」とどんぐりたちに言う。
それで、どんぐりたちの争いはしずかになり、それから、一郎は山猫に招かれることは2度となかった。
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誰が一番偉いかという話は昔からある。新約聖書の福音書やパウロの書簡にも似た話しがいくつもある。しかし、どの話も「一番偉いのはみんなにゆずって尽くすひと」である。例えば、マルコ福音書9章33~35節がそうである。
ところが、一郎の答えは、ちょっと変わっていて、どんぐりたちがそれぞれ自分が偉いと思っている価値基準の反対を並べているだけである。そこに倫理性はない。常識の反対を言っているだけだ。昔の漫画の『天才バカボン』で「バカは天才なのだ」と言っていたのと同じである。
山猫の申し渡しは一郎の提案ではなく、「いちばんえらくなくて…ようなやつが、いちばんえらいのだ」と変わる。「天才でないやつが天才なのだ」という論理である。なぜ、宮沢賢治は山猫にこう変えさせたのかも、私にはわからない。
さらに、一郎は「ぼくお説教できいたんです」というのが奇妙だ。出版のときの1924年では、「お説教」はプロテスタント系教会の牧師のスピーチを意味する。仏教では「説法」または「法話」が使われる。仏教徒や僧侶は、「仏教」と言わず、「仏法」という。「教」という語は明治時代に儒学の教養のある人が使っていた言葉で「人間の教え」というニュアンスがある。仏教徒や僧侶は「真理について語っている」との自負から「法」を使う。「法」は「法則」の「法」で、「法律」の「法」ではない。
宮沢賢治は、本当に教会の「お説教」を聞いたことがあるのだろうか。あこがれから「お説教できいた」という言葉が出てきたのだろうか。
『どんぐりと山猫』は、東北の美しい自然を背景にしたメルヘンであるが、メッセージ性があるのかないのか、私にはわからない。宮沢賢治は、西洋へのあこがれを東北の自然の中に投影し、オリジナリティの高いメルヘンを作り出したのだろう。
とにかく、この夏には東北のなかの西洋の地、北上川を訪れたい、と私は思っている。
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