けさの朝日新聞(耕論)は『新自由主義 どこに行く』であった。これは岸田文雄が「新自由主義」から決別し、「新しい資本主義」をと、自民党総裁選や衆院選で唱えたことによる。しかし、「新しい資本主義」とは何かは不鮮明のままだし、「新自由主義」とは何かも人によって異なる。
少なくとも、歴代の総理大臣の誰も、自分が「新自由主義者」だ、なんて言っていない。小泉純一郎は「規制緩和」と「郵政省の業務の民営化」を唱えただけである。安倍晋三は「自分がドリルになって固い(規制の)岩盤を打ち破る」と騒いただけである。
だから、朝日新聞編集部は、「新自由主義 どこに行く」という変なタイトルで、あえて、「日本における新自由主義とは何なのか」という問いを出したのだと思う。
ところが、3人の論者は「新自由主義」の投げかけた問題提起を避けて、自分の思いこんでいる「新自由主義」にもとづいて、話しているように見える。
ここでは、田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)にもとづき、「新自由主義」とは何かを考えたい。
田中は「新自由主義」のさきがけとして、経済学者ミルトン・フリードマンと社会哲学者フリードリヒ・ハイエクを挙げる。
《 フリードマンは、人々の福利を向上させるために国家の役割を拡大させようとする当時の思想を「集産主義」と呼んで批判した。それは個人の自由を保障するどころか、抑圧するものにほかならない。》
《 自由な市場競争を維持するためには、一部企業による独占を禁止し、通貨を安定させ、最低限の生活保障を提供するなど、国家が一定の役割を果たさなければならない。》
《 ハイエクによれば、1940年代には個人に平等な機会を保障することを「新しい自由」だとする考え方が唱えられ、国家による再分配や経済の計画化が広い支持を集めるようになっていた。》
《 もし国家が共通の目的を定め、「自由」の名のもとにそれを個人に強制するなら、その目的を受け入れない個人は抑圧され、排除されてしまう。たとえば、国家が一定の生活水準を定め、それを保障するために富裕層に税を課すなら、富裕層の自由は脅かされてしまう。共通の目的に人びとが合意することは不可能だから、国家権力の肥大化に歯止めがかからず、やがては国家がすべてをコントロールする「全体主義」支配へと至ってしまう。》
一般論として、国家が強くなれば、個人の自由が脅かされるというのは、もっともな心配である。「大きな政府権力」「小さい政府権力」という問題なら、「小さな政府権力」に一理ある。
しかし、「富裕層の自由」が脅かされるというハイエクの「自由」は「富裕層の貪欲」のことではないか。
日本語の「新自由主義」の「新」はネオ (Neo)であって、英語では「再生」あるいは「復活」の意味をもつ。フリードマンやハイエクは、もともとのリベラルの考えに立ち戻ったのである。「社会保障」や「福祉」を唱える1930年代1940年代の新しいリベラルを否定したものである。だから本当は「新新自由主義」というべきかもしれない。
歴代自民党政権は、規制緩和が正しいことのように、言ってきた。日本には2種類の規制がある。
第1の規制は、自由な市場を守るため、また、貪欲な金融業がバブルを引き起こし、その破綻で長期にわたる不況を招かないためのもの。
第2の規制は、被雇用者が雇用者のために過酷な労働条件で働かされないためのもの。
明らかに、これらの規制を緩和することが、良いとは言えない。
歴代の自民党政権は、財政出動のかたちで、政府の借金を大きくしてきた。もともと、マクロ経済での財政政策とは、増税をして市場のお金を吸い上げて、インフレを抑えるものだった。ところが、お金をばらまいて、景気を刺激し、政権党に有利な選挙を行うというのが、日本の財政政策になっている。
すなわち、歴代自民党政権は「新自由主義」でもなんでもなく、単に強欲に奔走しているだけである。2009年―2012年の民主党政権が初めて、財政出動が本当に日本の経済に意味あったかを問題視した。それが「コンクリートから人に投資」というキャッチフレーズである。
現在、岸田文雄が「新しい資本主義」との名でバラマキをやっていることは、歴代自民党政権の路線を踏襲している。
朝日新聞(耕論)に戻ろう。
藤井達夫は、新自由主義社会は過酷な競争社会であるという。
《新自由主義の社会では、誰もが企業家のようにならなければなりません。自己を磨いてリスクを管理し、競争し、投資し、打ち勝っていく。しかも、自己責任のもとで。》
私も競争は不要であると思う。新自由主義にかぎらず、リベラルも含めて、競争の肯定に陥りやすい。競争と能力主義は表裏一体で、格差肯定に行き着く。
小林リんは、アメリカの中間層と接触が長いためか、「小さな政府か大きい政府か」の枠組から抜け出ていない。政府が大きな権力を持たないようにすることは、民主主義にとって大事なことである。その意味では、安倍晋三は国家権力を強めるような法改正を続けてきて、まさに、民主主義の敵と言ってよいと思う。ハイエクの言う「全体主義」の道を歩んでいる。現状では、岸田の「聞く力」のほうがましである。
橋本勉は、安倍晋三が新自由主義者でない、と主張している。その通りであると思う。しかし、つぎの主張には同意できない。
《 新自由主義の要素を取り込みつつ、社会的投資を重視する「公益資本主義」といった大きなビジョンを出していくべきです。》
まず、なぜ、「資本主義」であるべきかが、私にはわからない。たぶん、「自由市場主義」を「資本主義」と言うのだろう。べつに「資本主義」でなくても、「共産主義」であろうと「社会主義」であると、個人の判断と多様性が認められている。もし、みんなが同じものを欲しがったら奪い合いになるだろう。ひとびとが多様だから、平等が実現できる。
いわゆる「リベラル」の誤りは「私的所有」を無制限に認めることにある。このため、格差社会が生じ、「競争」や「能力」で「格差」を正当化する必要が生じる。それだけでない。「共産主義」国家や「社会主義」国家や「イスラム主義」国家と戦うために軍事力を強化しないといけない、というトンデモナイ結論をみちびく。
新自由主義だけでなく、どうも「リベラル」から疑ったほうがよい。
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