なぎのあとさき

日記です。

真夏の空へ

2019年08月11日 | 猫トーク



8月8日は立秋。雲が高くなった。

前の日記で、病院で貧血が分かって、家に帰った後、殿はテーブルの下にしばらくいて、ゴロゴロいっていた。
このゴロゴロは、辛いときに出すサインだったけど、顔つきは苦しそうではなくて、夜にはシリンジご飯をして、ちゃんと飲み込んでくれた。

夜、少しずつ場所を移動して、2歩で倒れながら、板間まで出て来た。
殿の手が冷たい。
手を握ると、私の手に、頭をもたせかけた。
深夜1時すぎ、ダーが帰った。

明日は輸血して、それで元気出るよ、と話した。モンちゃんの元気分けたいね、って言ってたのが現実になるね、と。
そう思ってた。
目の前の殿はぐったりしてたけど、前の日までとは違ってたけど、輸血で元気になる!と信じて、輸血が効いてるうちに大がかりな検査をするか考えよう、貧血について詳しく調べて、造血サプリも取り寄せよう、と思ってた。
これから本当の正念場がくるのだ、と。

板間で伸びる殿と向き合って寝転ぶと、殿は私の顔をじっと見た。
いつもより瞳孔が開いていた。
子猫の頃のような、すごく可愛い顔だった。
手を伸ばすと、私の手に頭を乗せた。私の指を、肉球できゅっと握った。
明日、元気印モンちゃんの血を分けてもらえば大丈夫、これまで何度も生を取り戻した殿だ、今回も大丈夫!と思っていた。

2時半すぎ、私は眠ってしまい、ダーが4時すぎまで見ていて、その間も一度チッコもらしただけで異変はなかった。
6時半に起きてすぐ様子を見たら、呼吸が速くなっていた。
お腹の上下は早いけど、苦しそうではなかった。

やっと、ここまできてやっと、旅立ちの準備だと思った。
ダーと二人でお腹や顔、頭をずっと撫でた。ずっと声をかけた。
がんばれとはもう言えなかった。
殿ありがとう、殿愛してると繰り返した。

呼吸はしだいにゆっくりになった。
少し水分を吐いた。
その後で静かに、眠るように、息をひきとった。
はじめ気づかなかったくらい。
お腹にずっと手をあてていたダーが、お腹が動いていないことに気づき、顔や足を撫でていた私が、息をしていないと気づいたのはほぼ同時だった。
本猫にしかわからないけれど、苦しんだようには見えなかった。
穏やかに、すーっと眠りにつくようだった。

殿は16歳までは筋骨隆々の健康体6キロ弱できていて、2017年はじめに急に痩せて膵炎の診断を受けて投薬を始め、7月には腎不全の薬、輸液も始めた。
それから2年半、ひとつづつ、少しづつ、食べるものが減り、習慣(お腹フミフミ、私の枕で寝ることなど)が減っていった。自宅輸液(リフレ)と強制給餌は、波に合わせてずっと続いた。
下僕のお世話にこたえるように、2017年春~2018年の間は、強制給餌のいらない時期もあり、体重がなんども盛り返し一時は4キロまで戻った。
2018年の年末、お刺身を食べなくなったときから、少しずつ私は、メメントモリを意識するようになった。
生き物はみないつか死を迎える、今を楽しめ、ということ。
ただ殿は、いつも生きる歓びを取り戻した。
食べなかったお刺身をまた食べるようになり、キッチンで何かちょうだい、といい、外に出て日向ぼっこして、私が仕事から帰ると迎えに出てくる。リフレのたびに気持ち良さそうにしてた。

だから、一山はこれからだと思ってた。
これから食欲廃絶や輸液の拒否、下痢や嘔吐、暗くて冷たい床に引きこもる段階が訪れるのだろう、と。

殿は前日までリフレも全く嫌がらなかったし、朝はお皿の前にきて、ジュレをちょっとだけどなめたし、シリンジご飯も飲み込んだ。お水も自分で飲もうとした。
トイレに連れてくとふんばった。
薬も飲んだ。
顔や体を拭くときも、全く嫌がらないで私の好きにさせた。
私は殿のために何かをすることが、いつも幸せだった。楽しかった。大切な時間だった。

何年でも続けたかった。
でも、殿は、私が答えのない決断を迫られる前に、モンちゃんの血を抜く前に、私のお世話を拒否する前に、私とダーが揃ってるときに、お盆休みの前に、旅立った。
殿がずっと見せなかった顔をしてた。

殿がうちに来たばかりの頃の、うちの猫が殿一人だった頃の、子猫時代の顔だった。
新しい猫が来るたびに受け入れて、下の子の前では私たちに甘えずに、みんなのお手本のように気高く賢く気品に満ちて、賢者といわれた殿は、最後の最後になって無邪気でわんぱくで甘えん坊だった子猫の頃の可愛いらしい顔に戻って、私たちの腕の中で旅立った。

ダーは旅立ちのとき、撫でながら「殿はすごいよ!殿はかっこいいよ!」と声をかけていた。

ダーは、殿は一周回ってた、と言ったけど、16歳で賢者をまっとうしたあとの3年間は王公貴族として、みっちりお世話をさせてくれた。
輸液は500回近くした、殿の食べたいものを探しつづけた、トイレのときはついていった、ひまさえあれば顔や体を拭いた。
介護前より親密な仲になり、撫でたり、おでこにチューしたり、声をかけることも思う存分した。
その間、何度か私に心構えをさせた。覚悟もさせた。本当にたっぷり時間をくれた。

それでも悔いはつきない。
だって、通院の翌日だった。
なぜその日のうちに輸血、造血剤治療しなかったのか、と、これは先生の判断であり、先生を責めることで私が自分を責めることを軽減するための殿の計らいだったようにも思う。

直近の週末まで海にライブにと夏を満喫してたこともどうかと思う。
殿の衰弱は徐々に徐々にゆっくりだったから、その段階に来てることがわからなかった。殿は何度でも上向く!という希望が常にあった。
これも、私が大好きな夏を謳歌するがよい!という殿の計らいかもしれない。
介護序盤はオロオロ動揺し右往左往していた私を、あわてず騒がず考えて、できることをして、いつも希望をもって日々を楽しめるようにと鍛えてくれたのも殿だ。

お気に入りの椅子に上がれなくなったことが急変だとしたら、そこからたった1日だった。

ああでも、私はバカだった。
よく寝れたな、オイ!
楽観もここまでくるとバカだろ。
バカだったー。バカバカ!大バカやろー!
殿にふさわしい人間にはほど遠い。
一生かけても殿につりあう人間になる自信はないけど、殿、また会おうね絶対ね。

ビーはその日、一日中私にべったりだった。殿に寄り添ってるときから廊下で私を呼んだ。
ずっとそばにいて、腹に乗ったり膝に乗ったり。
シッポばんっ!でポンポンさせたり。
ビーに悲しみの様子はなかった。
やっぱり猫にとって死は悲しみではないんだと思う。
今月で19才、かちこすぎるビーは、もうすぐ殿が消えること、でも実は消えないこともわかってたようだ。

ビーは泣きまくる私の意識を自分に向けて、「あたちがいまちゅけど!」と存在をアピールするのは、モンチのときもそうだった。
ビーは殿と同じ年でありながら、元気にむしゃこいしてくれて、少し若返った雰囲気まで出して、私に殿の下僕業を優先させてくれた。

モンちゃんは私が泣いてようがなにしてようが、「おちょといこーぜ!アッハー!いいてんきなんだぜ!」とワーワーやってた。
モンちゃんの明るさが、日々をどれだけ照らしてることか。
一緒に庭に出ると、土の上でごろんした。
無心になってクリローやホトトギスを植え戻して水やりをした。暑さで溶けた。
百日紅が咲いてる。

2019年8月9日、この夏一番の猛暑日。
空が青くて、なにもかも眩しくて、ボーッとするほど暑くて、ミンミンゼミが鳴き、台風のいい風が吹いてた。
お花屋さんに行くと、殿にぴったりな白のヒマワリと白いバラがあった。
庭のアゲラタムやチェリーセージと一緒に飾った。



夕方河原に出て、遠くにいる台風10号の風を浴びて、空や緑や川や上弦の月を見ていたら、悲しみよりも殿への感謝の気持ちがあふれてきて、止まらなくて、景色が染まっていくようだった。
モンチの夏至にしても、殿の真夏にしても、自然が全力で私を支える季節なのだ。
すべてが殿であり、すべてがいとおしかった。
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