雪が溶け始めて 道路は水浸し・・・少しは暖かくなったのかな?
どれもそうだなぁ~と思います。
私は おせっかいな典型的 下町の かあちゃんタイプで
困ってる人や 頼られたら 自分の出来る限り やってしまいます。
そんな事をした事も すぐ忘れてしまうので・・・・
ある日 お客さんが 若いお兄ちゃん 誰だぁ~と思ったら
ずいぶん昔に 面倒見てあげたUくんでした。
立派に成長した姿を見て とても嬉しかったです
俺・・漁師になったんだ! これ俺が取った蟹だから食べてって
大好きな 毛蟹を沢山持って来てくれました
それから毎年 届けてくれます。 嬉しいお返しです。
10年たったけど 覚えていてくれたんだぁ~ かあちゃん感激です
他にも 私は忘れてるけど あの時 優しく話を聞いてくれたから
なになにをしてくれたからと・・・ お礼を言われる 凄く嬉しい一瞬
私を育ててくれた祖母が そういう人だったので 似たのね。
祖母はウクライナ生まれでロシア革命で父と兄を銃殺され(神父さんでした)
母親や姉達とも生き別れになり 1人北方領土にある
樺太に逃げ そこで祖父と知り合い 結婚5男1女に恵まれました。
(父は 三男になります)
4年前かな 神父さんから 聞いたのですが 夏休み時期に
東京から 女子大生が1人で教会を訪ねて来たそうで・・・
ダリヤさん(祖母)のお墓がある場所 教えて貰えませんかと言われ
事情を聞くと 幼い頃 母子家庭で住んでいた アパートに 祖母も
住んでいて すごくお世話になり 可愛がってもらったそうです。
幼いながらも ず~と忘れなくて 地元を離れても
いつか逢いたいと思っていたそうです。
でもいろいろあり 生きている時の再会は出来ず
こちらに やっとこれたのは 大学生になってからだったそうで
祖母が よく教会の話をしてたので ハリストス正教会(ロシア教会)
(函館では観光名所になってます)に行き聞けば
祖母のお墓が解ると思って 訪ねて来たそうです。
15年以上はたってます。 よく祖母の事を覚えていてくれて
神父さんに案内され お墓参りして 東京へ帰ったそうです。
嬉しいですね~祖母の事 優しい おばあちゃんだと思ったそうで
親切にして貰ったのが忘れなかったって・・・
86才で天国に行った祖母も喜んでるね
私には、鬼のように厳しい 怖い かあさん(祖母)でしたが
今は自分で孫を育てて理由が解りました。いろんな常識 躾など
早く 教えないと 時間がないと 思ってしまうし
普通の 常識ある 優しい人間になってほしいと思うので
つい・・・厳しくなるんだよね~祖母も そう思ったのかな
皆様も 人には優しく 親切にしてね いつか・・・忘れた頃でも
きっと・・・いい事が 待ってますよ
イヤされる 寝顔のワンちゃん
おば~ちゃんと孫ワンだそうです。安心して寝てる孫ワンが可愛い
子ダックスと子ニャンコ・・・ 癒されるぅ~
完全に 爆睡してるフフフ きゃわいい~
ワンコも にゃんこも好きな かあちゃんです。
癒されましたか? マタネッ(^ー^)ノ~~Bye-Bye!ね
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ご家族と生き別れになったのは第2次世界大戦中なのでしょうか?
樺太まで移動するなんて想像するだけでドラマのようです・・
人には親切にしなさい
自分の「徳」が子孫に還って来るから
お蔭で子供たちは、それなりに
私も「徳」を積み上げ中
如何せん
未熟な性格が積み上げ邪魔する
第2次世界大戦より前の ロシア革命の時の
話です。歴史でチラッと習ったかも・・・
宗教戦争とも言われてますが 祖母の父が神父だったために お兄さんと一緒に銃殺されたそうで・・・
命からがら 家族バラバラになり 1人樺太まで
逃げて 祖父(日本人)と結婚して
材木業の経営が上手くいき お手伝いさんや
子守さんもいたそうです。
その頃の写真が残ってます。蓄音機の前で
家族写真 祖母は着物を着てました。
日本語は カタカナしか読めません。
文字も カタカナしか書けません。
日本語も きっと男性に習ったのでしょう・・・ぶっきらぼうな 日本語でした。
日記は 全部ウクライナ語で書いてて
まったく読めませんでした
サンフランシスコに行った友人と 手紙のやり取りしてて すご~~いと思ったもんです。
3年に1度は サンフランシスコから 祖母に会いに
ベリノコフの おばちゃんが遊びに来てました。
80才位まで 手紙のやり取りしてましたね。
親友だったんでしょうね。
小さい頃 祖母が外人だったのでイジメられましたが 大きくなって感謝しましたよ。
色が白い 目が大きい 少しはロシアの血が
入ってたので モデしたアハハハ
娘達の時代になると まだ生きてましたので
曾ばあちゃんは、ロシア人だと自慢してました。
私の娘達をとても 可愛がってくれました。
ボルシチと ワレーニキ(餃子みたいな形のウクライナの家庭料理です)を よく作って食べさせてくれました。
今度 ゆっくり 祖母の事を 書こうと思ってます。 あまり その頃の話はしてくれなかったけど・・・・
第2次世界大戦で想像を絶する体験をしたのは、間違いないでしょう
父でさえ 私に言ってなかった樺太時代の話を
亡くなってから 記者さんに聞かされ
祖母の事や父分の体験を 取材してたそうで
まだ1回しか 取材してなくて
でも地図や今までの話をまとめて
小雑誌でしたが 乗せてくださいました。
それを読んで びっくりの連続ですよ
私の知らなかった事んばかりです。
でも血は受け継いで 孫達に・・・
玄孫も見れるのでは?と思うほど元気でしたが
あっという間に天国へ逝ってしまいました。
天国は 賑やかでしょう
でも甘えさせてもくれたし 愛情を沢山もらった気がします。
6人育てた後の 孫(私)育て大変だっただろうなぁ~
生後6ヶ月から 育ててもらったので
本当の母親だと 思ってました
父が21才の時の子供ですから
私も21才で長女を生み
次女が21才で 今育ててる孫を生みました。
祖母は 曾孫まで見れましたが
父は70才で他界したので 孫しか見れなかったの・・・ 長女の子供が生まれるのを
楽しみにしてたのにね・・・
なので父方の墓守り してます。
隣に次女のお墓も建てたので 一緒で
寂しくないでしょう
天国で 次女の面倒見てね~と
いつも祖母にお願いしてます。
先日、ロシアの大統領が代わりました。両国が納得する解決を希望しますね。
2006年の日記に書いてました。
今も大切に本は持ってます。
自由奔放に フーテンの虎さんのように生きた
父 純二・・・
右側 カテゴリーの中に 純二伝説があります。
読んで笑ってやってください
いろんな辛い経験が あんな性格にしたのね
決して弱みを見せない父でしたが・・・
もうすぐ命日です。大好きだったでも お供えしますか・・・
私の好きも遺伝?
叔父 叔母も 大好きでした
社会主義だからそうですよね。
お婆さまの日記楽しみにしてます
お祈りしてました。
せっかく授かった命 大切に 大切にして
生きていこうね。 生きてるだけで
いいんです。 な~にもしなくたって
家族には 宝だから・・・
手紙など 残ってるので 載せますね。
あまり 自分の事 話さなかった祖母だから
よく知らないんですけど 気丈な祖母でしたよ。
逢いたいなぁ~ もうすぐ逢えるね