北の大地の かあちゃん日記

北の大地のように逞しく 反抗期の孫育ては終了15年長かった。膝に人工関節 軽い脳梗塞にもなり頑張ってます。

樺太引揚者の祖父母や父の事で取材が・・・

2015年03月30日 | 日記

 私の父方家族は今は北方領土になってる
樺太からの引揚者でした。

1935年樺太(サハリン)島中部の敷香(シスカ)で生まれ育った
父を含め 兄弟妹6人そしてウクライナ生まれの祖母 道内生まれの祖父

木材業をしていた祖父 お手伝いさんや 小守さんがいたと

よく祖母が話してました。祖母にとっても父にとっても

1番楽しかった時代ではなかったでしょうか?

蓄音機の横に家族で写ってる写真が忘れられません。

しかし戦争が始まりました。


終戦2ケ月前に突然日本軍によって上喜美内(カミキミナイ)の

外人捕虜収容所に入れられてしまいました。

祖母がウクライナ人だったためです。他にエチオピア人やトルコ人がいたそうです。

生きて日本に帰れないぞと何度も言われたそうです。

収容所はバラック小屋で粗末な作りで冬を越せるとは思えなかった

そうです。食事も もちろん貰えませんでした。

わずかに残ってたお金で食べ物を買ったりしてしのいでたそうです。

終戦後 今度はソ連軍が捕虜収容所にやって来たそうです。

今まで威張ってた日本兵は 祖母に助けを求めたそうです。

軍人だと解ったらシベリア送りになるので民間人だと嘘をいい

祖母は何人も逃がす手伝いをしたそうです。

祖父母や父達は 今度はソ連軍に富内に連れて行かれたそうです。

そこで祖母が通訳として雇われたそうで2年もいました。

待遇は良かったそうです。

昭和23年11月3日に やっと引揚船に乗り函館に着いたそうです。
 
助かったと 心から安心したと父が言ってました。
 

捕虜収容所にいたなんて父や祖母から聞いた事は1度もないんです。

偶然 居酒屋で知り合った記者さんに 父が この話をしたら

興味を持たれ 取材という形で何度あって 父から聞いたそうです。

取材途中で父は心不全で急死(70才)したので あまり詳しい事が解らないまま

竹内さんという方が けーし風(かじ)という新沖縄フォーラムの季刊誌

載せてくださいました。載ったのを送って下さいましたが

初めて見る?話ばかりで驚きました。この話をチャットで話したばかり

すると竹内さんから 電話がありまして

その頃の写真などあれば ぜひ参考にしたいと言う

新聞記者さんがいるので協力してくれませんか?と

のちに新聞記者さんからもメールを頂きました。

しかし 神戸の叔母(父の妹)が 樺太時代の写真を

ほとんど持って行ってしまい 無いのです。

叔母は48才の若さで食道がんで亡くなりました。

その写真を返してほしくて 毎年 神戸の叔父に話すのですが

アルバムの数が多すぎて解らないし 写真を見ると辛くなるから

1度神戸に来てアルバムを見てほしいと言われます。

でもね~お金がぁ~時間がぁ~孫育てしてますからね

祖母たちの写真は ぜひとも返して頂きたいのでですが

叔父も 元読売新聞の記者でしたので お願いしてみます。

アルバムを送ってくれるように頼んでみるつもりです。

祖母は決して戦争の話はしませんでした。

両国に挟まれ 相当苦労したと思います。

生きて行くために子供を守るために必死だったと思います。

私の子供達を すごく可愛がってくれました。

優しい 優しいメガネのばあちゃんと呼んでました。

今こうして 当時の捕虜収容所の話や祖父母や父の事を

記事にしたいと 連絡を頂き 私も何とか手伝えたらと

思っています。 もう2度と戦争を起こさないためにも

なんか真面目な話になってしまいましたが・・・



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8 コメント

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こんにちは (音弧)
2015-03-31 10:25:44
私なんか世代は戦争を知りません
親が幼少期を過ごしたくらいですね

戦争は悲しみを多く作ります
悲惨です

この先、そんな時代にならないように・・・知っていることを話ていくのも大事と思います
おばあさまが過ごされた時を色々と知っておきたいですね
語り継いで欲しいです
返信する
戦争の傷跡 (モドキじいちゃん)
2015-03-31 12:09:36
こんにちは!

戦争の事は全く知らないので、今日の日記を
読ませて頂いて大変な時代だったと認識させ
られました。

今の平和な時代。多少の問題があっても昔に
比べたら良い時代と思わないといけませんね。
返信する
音弧さんへ (かあちゃん)
2015-03-31 17:14:01
私も戦争を知りませんが 祖母が外人だったため

子供の頃 イジメにあった事はありましたが

大きくなると かえって良かった事ばかり

モデしたからね

祖母は 娘達が上は中学生になるまで生きていてくれましたので

大変 可愛がってくれました。娘達も懐いてましたよ。

私が祖母を おか~さんと呼ぶと不思議がってましたが 

赤ちゃんの頃から育ててくれてたので

母だと思って育ちましたので 事情を知っても おば~ちゃんとは呼べませんでした。
実家に帰るように 祖母の家に頻繁に遊びに行きました。

でも戦争の話は いっさいしなかった

引き上げ前の家族写真を見た時に

これは誰?と何度も聞いてましたね

祖母の若い頃は 美人でしたよ。

町の写真館に 祖母の写真が飾られたと自慢げに話してました。

そういう写真を探しましたが1枚もないので父に聞いたら 神戸の叔母が

全部持って行ったと言ってました。

父の住んでたMSが漏電で火事になり 残ってた写真も水に濡れ 全部ダメに

なってしまいました。

竹内記者さんが書いた父の話を読んで

びっくりしました。父も私に話てなかったんです。

今の時代 捕虜収容所に入ってたなんて話しても 軽蔑なんてしなかったのに

苦労して 日本に無事もどって来てくれて良かったと思いました。

そうじゃなきゃ 今の私や孫達は生まれてませんでしたからね  
返信する
モドキじいちゃんへ (かあちゃん)
2015-03-31 17:24:20
祖母には もっと幸せになってほしかった。

苦労ばかりで ウクライナや樺太に連れて行って

あげたかったです。6人育て上げた所で

私の孫育てです。大変だったと思います。

今私が 怪獣育てて大変でしたから

本当は お金持ちの家に養女に出されるのが決まってたらしくて

祖母が 許さない 家に連れて来いと父に言って 私は祖母に育てられました。

どうして目の色が違うの? どうして髪を黒く染めるの?

どうして字が書けないの?読めないの?

質問ばかりして叱られた記憶があります。

教会へ行ってる時が1番幸せそうでした。

その帰りに 5番目の息子のお墓参りをするのが 祖母の日課でした。

14歳で 私が生まれる3年前に亡くなってます。

私も祖母の後をついで 14歳の叔父を含め 

祖父母や父のためにお墓を建てました。

その隣には次女のお墓があります。

いつも一緒で寂しくないと思って

相当辛い戦争時代を生き抜いてくれた事を感謝してます。

祖母の血は 飛んで飛んで 玄孫に出てます。

色白 ピンク系 髪が赤くて ハーフと間違われます。

こうして祖母の血は繋がって行くんですね。
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樺太 (ロクギョ)
2015-03-31 18:15:22
 もう亡くなったけど、オイラの父親も樺太にいたことがあったらしい。太平洋戦争時、土木系の技術者だった父は徴兵は免れたらしい。でも飛行場を造る為に樺太に行かされたそうだ。とにかく食うものが無くて餓死寸前で運良く本土にたどり着いたらしい。あの頃の話は一切しなかった。相当辛い思い出だったんだろう。樺太で捕虜になり沢山の人が亡くなったことはあまり知られてない気がするね。
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ロクギョさんへ (かあちゃん)
2015-03-31 23:10:24
そうなんです。父達が収容されていた

捕虜収容所の事は誰も知りません。

父の事を書いてくれた竹内さんも

消された捕虜収容所と題名が付いてました。

秘密に処理されたみたいです。

何人も犠牲になったと思います。

スポーツ界で有名になった方の家族も

一緒にいたそうで 北海道に戻ってからも親戚みたいに付き合いがありました。

どうして仲がいいのか?子供心に不思議に思いましたけどね

まさか捕虜収容所で一緒だったとは言えなかったんでしょうね。

その方のお父様は そこで銃殺されたそうです。

日本軍に捕まった時は 食料はなかったそうで

ロシア軍に捕まった時は 祖母が通訳をしてたので 食べ物はあったそうです。

通訳をしながら 本当は軍人だったのに

庶民だと嘘をついて 何人もの日本人を救ったそうです。

おかげで日本に戻ってから アメリカ軍に呼び出され 尋問を受けた祖母

東京から1年間戻ってこなかったそうです。

沢山 苦労した祖父母や父 

晩年は 平凡に暮らせて貧乏でしたけど

よかったと思います。
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Unknown (sstk)
2016-06-23 20:37:57
大変興味深く読みました。わたしの母方の祖母も樺太シスカにいました。豆腐屋さんだったようです。シスカにいたころが幸せだったとよく聞きました。
もっと知りたいのですが、調べようもなく、祖母も亡くなりました。
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sstkさんへ (北の大地の かあちゃん)
2016-06-23 22:18:01
祖母もシスカにいた頃が1番幸せだったと言ってました。
大きな家 お手伝いさんに乳母までいたんですから祖母は幸せだったでしょうね。

ロシア革命で1人で樺太に逃げてきた祖母

偶然祖父と知り合い結婚して5男1女をもうけ

戦争さえなかったと言ってました。

調べようがないですよね・・・記者さんが調べてくれなかったら こんなに詳しく私も知りませんでした。

今でも確実に祖母の血が受け継がれてるのが とても嬉しいです。

孫は 本当に色白でハーフみたいに可愛いんですよ

ロシア正教の様式でお墓も建てましたので

十字架に2本線が多いのですが

天国で喜んでくれてると思います。

日本で沢山 苦労したから・・・天国でウクライナで別れた両親や兄姉達に逢えたと思ってます。

コメントありがとうございました
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