花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

全くの私見ですが、、、痴呆と虐められる環境との一例

2019-08-15 03:05:26 | Weblog

若き日に「恍惚の人」という本を読んだことを思い出します。

森繁久彌さんが映画にも出演されて

痴呆になってゆく老人の日常を

哀しいまでに名演技で

若かった私の心に「直撃してくる崩壊」を問いかけてきました。

人間が悩の機能に障害が起きると

様々な病気になることは、

薬剤師になるまでのプロセスで

学問としては講義を受けて、

麻薬や覚せい剤の取り締まりの大切なことは

肝に銘じて勉強してきました。

医療としての、脳の機能の異常は

これからの医薬の世界の課題として取り組んでゆくことは

永遠の課題だとは思います。

こうしたレベルの次元とは別に

お茶の間の「主婦」「家族」「住宅事情」「経済事情」

町内会や身近な知人、親戚兄弟、夫婦関係、、、など、

人間の機能とは別に「やる気のおきる心」「何もしたくない心」

災害などショックが起こす逃避の心

喪失感からくる「心の免疫力に似たような、、、耐力」

もちろん、理想的な施設に入居でき☜

何の心配もないはずなのに、、、ボケてゆく要素は何なのか?

人間は、、、聖書の言うように

パンのみには生きられないのかもしれない。

アイデンティティといえばよいのか?

自分主体になれる何かが、
脳のエンジンをかけるのではないかと???
思いませんか?

与えられるばかりの環境は、
脳の萎縮が起きてもふしぎではありませんよね。

だって、、、

自分で動いて、
自分で考えて、
自分で評価して

客観的には被災者であって
虐められっ子で
村八分的なよそ者扱いをされていると、、、仮定する。

和歌山で、潮岬の嵐の中の防空壕で生まれた私。
両親は戦地からの帰国許可で焼夷弾の雨降る日本の本土に帰還。
この間南紀の豪族の孫と宮内庁勤務の父を持つ医師の夢のような青春。
日本でも一握りの女性の女学校教師という東京府のキャリア女性の母

戦争に巻き込まれて、
千人張りと、名誉の送迎で戦地入り。
勤務が総合病院院長だった現地の臨床医養成の仕事の父は
外科の医局のない漢方医の外科指導という医師ならではの奉公。
総合病院を丸ごと預けられての院長の周りは日赤の提灯袖の看護師さんがいっぱい。

母は子供を連れて戦地の病院までついて行ってしまった。

言葉の解らない外国で
4人の子供の育児は不自由であった事だろう。
占領軍としての微妙な日本の軍医は規則に従うだけで家庭は無し。

それでも母は夫のそばが安心だったのだろうか?
戦争が激しくなり、
長男を残して3人の子供を喪った。
なかば、ヒステリーの静かな内向タイプの異常状態だったのかもしれません。
母は無くなった息子たちを取り戻すのだと
4男にたる男の子を激戦地のニュースの中で主産するが
一度は仮死状態になる様な育児の環境ではない中で頑張ってしまう。

孤独と、子供の死と
言葉の解らない不便さと、

明治生まれで大学を卒業した気丈な母も
誰が悪いんでもない、、、戦争に虐められたいじめられっ子と言えそうだ。

一年違いで私がお腹に入ったまま
軍医は最後のトラックが迎えに来ないという
戦場に行くのにも行けない状態の日に

日本から祖父が単身戦地まで娘夫婦家族を迎えに来た。

ヨーロッパの地続きの住人のする方法に従って
退却するときの為に、指輪やブローチやネックレスにしておいた報酬金は

最後の日本への連絡船の切符を手に入れるのに役立った。

あとは、一品づつ、関所を通るのに使いながら
日本について、満タンの屋根まで乗客が居る汽車の
子供の為の座席の確保に焼きだったとか、、、

串本まで来て、焼夷弾の降る中で
防空壕の中で、私は生まれたそうです。

戦場まで娘夫婦を迎えに行った私のお爺ちゃんが
串本で、役所に出生届を出してくれました。
「この子、紀州の子供なり」と。
防空壕では、栄養失調の私は泣き声をあげなかったそうです。

すでに生まれていた子供でも、
うるさく泣く子は、味方の日本人の手で殺されたそうです。

生きるのか死ぬのかわからない状態で
南紀の川を昇って山の中について

巨大な銀杏のある村の診療所の医師として
父は命がつながったのでした。

長旅と逃避と、食糧難と、子供の戦場での死、、、
之って、、、究極のいじめられ体験だと私は思います。

父も市ヶ谷のお屋敷で生まれ、
文人通りの作家や芸術家らとの行き交う中で

当時は宮内庁の方々の医療を担当していたという
慈恵医科大学から、戦場に行ったのですから

天と地の落差のある環境に耐えたことになります。
優秀だったすぐ下の弟は無くなり、
妻の弟も、末っ子の実弟も学徒出陣で出兵。
シベリアを体験して、兄弟親戚皆父の居候。

戦後のアメリカの教育に追いつけ追い越せの日本人魂は
こんな落差のある環境にも
い命を懸けて、自分発の復活に、
明日の事は明日考える日々だったという。

ヨセミテ渓谷の瀧もびっくりの落差のある
命がけの帰国と
無一文からの父には
母が最期に持ってきた「メス」などの入った手術道具のカバン。
財産は、、、これだけ!

究極のいじめられ体験の父母は
それでも、、、満身創痍でも、、生きているという事が
当時としては大変な幸運だったそうです。

何で?????父母たちは正常で
無一文から私たちを
大学入学まで押し上げてくれることが出来たのか?

何処にそのような復活のパワーが潜んでいたのか?

何で???気が狂って苦しさの頭皮をせずに、、、立ち直れたのか?

物ごころついたとき
私が、、、「アリラン~~」と歌い始めたとき

狂気のように、耳をふさいで
小さく丸く体を丸めて、、、死んだようになったことが有りました。

想像を超える母の苦労が垣間見れた一瞬でした。

第二次世界大戦を漠然と受け止めながら
ひたすら実験をしていた地下室の住人は
痴呆になるという噂だけで、現実には
人間を辞めてしまった状態には
なっていないことになりますよね。

科学実験を駆使して、
自分を主体に生きていたのですから、、、。
地下室で、、、

阿保になれるのと
痴呆とでは違いますよね?

焼夷弾で壊滅した町の中で
長谷川利行は多くの歌を残しています。

もしかしたら、、、
関東大震災のなかだったのでしょうか?
彼の絵の下の意識下に感じる「ビク!」となる変なオーラーは
絵はがきほどのダンボールの欠片に画かれた絵とは思えない
退廃的な恐怖を超えて、手元に置けなかった。

多くの倒れた被爆者の中を
正常の脳のまま歩けるとしたら、
人間のこころの壊れ方と
脳の壊れ方は
一部の人間は連動していないのかもしれません。


途方に暮れて狂う事でバランスをとる悩より
正常な脳の行動結果、ゲルニカや、
製作する心の余裕のある事の
不思議を思いながら
世界各国、
戦乱から立ち上がった復活都市を観るにつけて、

終戦まで生きて、、、今日まで
復活の道を歩んでこられた
日本人の脳の柔軟性に驚くときがあります。

終戦記念日が、過ぎました。

75年前の惨状を記憶の引き出しから
ソート出して思い出させます。

日本人は、自分があるから生き残ったのか?
人間という同じ次元の座標にあるものに支配されるものと

神様が居ると信じて、
人間以外の全知全能の何かを肯定して
姿なき、、、卵の殻の中で
ヒヨコになるまでに人生が終わってくれているのか?

人間はヒヨコになって
卵の殻の外に出たことが無いのか?

卵の外には、世界が無いのか?

はらきり、、、
三島由紀夫さんは
100まで生きていたら
切腹をどのように意味づけるだろうか?

一説には、川端康成さんと
年代の相違が
ノーベル賞獲得に影を落としたという説もありますが、

盾の会というのは
私ごときには難解すぎて
理解をすることまでは
考えるのさえ控えてしまいます。

天才と言われる人の心は、
人生不可解なり、、、という
東大に入学出来ているのに
瀧から飛び込む学生さんのように、、、

切腹も、飛び込みも、
自我の主体に理解が追い付かない何かがあるのでしょうね。


逃げきれない苦しみを背負わされたら、、、?
私なら、、、呆けて、しまいそうな気がします。
人間はやめても、復活のチャンスを残そうと、
自ら死ぬことは出来ない相談です。

痴呆にはならなかったのか?

武士道に支配されている人間は
究極の時点で
はらを切って自分で死ぬという

ある種の主体が在り

支配されているように見えて、
殿に仕えるという非支配の中に
武士であるという主体のある主体のなかでの仕えるという誇り?
アイデンティティよりもっと、、、重い何かがあるとしたら?
誇りと主体をもって、
時代の制度に支配されていたと仮定すると

武士の魂を持った者は痴呆にはならないのか?

考え方で脳の萎縮は起こらないのか?

考え方で、感受性が大きく変わることは確かである。
内分泌や、ホルモン、、
アセチルコリン、、、等伝達物質
セロトニン
ドーパミン
、、、、、
無限にある生命体のような、、、人間のピースを

最後の空間にはめたときに

はげ頭だって勝手に怪我生え始めるだろう。、、、か?

「心」は卵の殻の中で、
ヒヨコになってそだってゆくのだろうか?

成長してゆく欲望が、
自分という器の中で

卵の殻のようなものに突き当たり
その殻が破れないとき

人生の殻の中に閉じ込められてしまったとき

悩以外の生命体が
宇宙に浮かぶ銀河のように
人間の中の別の生命体が、
絶妙に
引力のような
相互の関係に見えて入るが、、、?

大きな宇宙の支配を受けて
生まれ乍ら、、、壊れ乍ら、、、
動き続けるというバランスの中で
壊れ乍ら、生まれながら、修復されながら

赤いカニの大移動のように
人間も
ある種の方向性に従って移動しながら
膨らんでは壊れて
壊れたものは風化しながら成長を遂げたモノの
存在を可能にする。

再び壊れそうもないもので
復活を繰り返しながら

原子爆弾によって分解する。
人は元素という
小さな存在から、

ひとかけらのピースを創りはじめ

ピースをつなぎ、
はめ込めながら復活してゆくのか?

全く別の生命体として存続し続けるのか?

一度死んで、、、生き返った人が居たら、、、?

ナイルの文化のミイラは
来世が来たことが、、、認識できるのは

実は「博物館の展示室」のサイドなのか?

サイトカイン、、、∞の命のピース。
人間の中の家来のようで、
家来でない生命が

バランスが保てなくなったとき

次のチャンスに生かそうと思考をめぐらす
、、、自分発の脳のエンジンをかける刺激。

ゴミとゴミでない物の違いも

値段や希少価値や、人間国宝作家の客観的価値の他に

個人ごとに独自の感受性のセンサーの感度を持っている。

例えば一例に過ぎないが、、、

3歳ぐらいの時に、

初孫がきらきら光るキャラメルの包み紙で

八角形もどきの指輪をつくってくれた。


私は15年も経った今も大切にしていますから、、、

「婆にあげる、、、僕が作った指輪だよ!」

あの時の可愛いい笑顔が指輪と連動して

時を止めている。
キャラメルの紙で創った指輪は
私の記憶を
「時を止めたまま」微笑みを誘う

生きている物を孫から教えられた。
生きていることは見えないが

川の水のごとく確かに、、、
故人が残した文のように
絶え間ない形がとどまることが出来ないが、

孫は、
キャラメル包み紙の指輪をつくって

時間を止めて、、、

見える形で、、、

「心の存在のような光の揺らぎ」を

生きている不思議な「心」の動きの存在を教えてくれた。

心の中の

記憶や感動や喜び、、、

悲しみ、、、

喪失感と

時間を止める力のある記憶とは

脳はもう一人の私というよりは

「感情の素直すぎる私の中の私」という

友達のようにも思えてくる。


戦時中に生まれた私の兄や主人には

共通点がある。

はっきりした形や行動としてあらわれなくても

戦中に幼少時代を過ごした年代の人は

心に、虐められた被虐の記憶がある。

取り返しのつかない喪失感からくる

心の貧乏がどこかにある。

終戦なのだと、

人間であることの最後の頑張りが
戦争を、終わらせたんだと
主体をもって、戦争の終わりに向かって
自分自身が主体の戦後を生きてゆくなら

敗戦という言葉は要らない。

破壊行動の手段で
世界を支配したつもりであっても

原子爆弾は支配者事、死の灰に分解して命は無機物にしてしまうからだ。

見える次元、
機械の次元
物質の次元の

支配ごっこが

原子爆弾という手段なら

切った、、、貼ったの世界から

一歩も踏み出してないという
卵の殻の世界ではないのか?

人間という、

不思議な生命体の集積のような

「命と呼ぶ宇宙の中」で

領土を争うという、
経済を争うという
○○ファ―ストと言うよりも

お金が無くなることが恐怖という物質世界が存在する以上

無限に豊かになれる「心の世界」は理解されないだろう。

世界が一つになって
解読してゆかねばならない
科学の時代が来てしまった。

大きな問題の答えを
円周の上の無限の点のような
各々の考えが世界各国の知恵の円周で
我が国の一番だけ考え始めたら、
数値化できるのは

物質や数字や金塊だけに置き換えるのだろうか?

西部劇の領土争いや、

十字軍時代の権力争いに

逆戻りして着くのだろうか?

未来より過去の納得が独自の理論で大切な国は
未来を喪って、過去の証明に走るとき
「時間」という、、、生命あるもののすべての支配者が

振り向いて立ち止まって、、、
「乗り遅れる文化文明の列車のドア」を
開けてまってくれるだろうか?

time up!


「世界中話し合いの地球単位の平和という目的」に
向かってゆくならば、
答えに向かってゆくのかもしれない。

戦争は、
大きな意味で、
「人間の欲」が一部だけ
異常に成長しすぎた
バランスの悪い、、、病気のようなものの
しこりのように思えてくる。

世界中で手を取り合って
人種を超えて、
「欲張り」から脱出して

地球の心に触れられたら、、、と思うとき、
痴呆になってしまって、
人間を辞めてしまう暇はありません。

    眠くなってきました、、、
お休みなさい、、、私、



光ってる虫?
目立って鳥のエサになるほど大きくない、、、
可愛らしい私、、、


*************本日をもって、心を整えよう、、、*************

多くの状況に
おびえたㇼもしただろう?!

欲しいものも、
もらえなかっただろう、、、

立派な家業の跡取り息子のはずが

空襲で木っ端みじんの町全体の瓦礫の中に立ち尽くしたとき

人は、痴呆状態に一瞬なることによって

何らかの能動的な脳を保護しているのではないかと思いませんか?

75歳になったせいでしょうか?

真夜中にこんなことを考えて

眠れない夜を、
眠らないで文章を書く時間なのだと

自分主体に解釈することにしています。

自分でも気が付かない時間に

昼間、、、

洗濯物をたたみながら、、、
きっと、、、動きながら眠ったのだろうと、、、
夜に起きる時間がずれ込んだのだと、、、
あくまで主体は自分にあると思う事にしている。

痴呆になることだけが、、、
これからの恐怖だから

命尽きる直前まで、、、
すべからく行動する毎日は
「自分発」という前提で、生きてきた以上は

仮に、、、
家族と言えども

人に頼ることだけはすまいと思っている。
人に支配は受けるまいと思っている。

自分で出来ないこと以外は
欲しがらないことである。

自分で出来る範囲の中で

気が付くことを
お線香花火のように繰り返しながら
松葉を散らして
柳となって
小さな球となって
ぽとりと落ちて、、、
命が付きますように、、、(^^!

自分の心の中に火花が視えればそれでよいことにしよう、、、



            やっと、、、眠くなったので、、、寝ます。

      御、夜、巣、視 拿 娑 意