花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

主役を交代してみると!

2020-05-15 06:45:26 | Weblog

吾輩は猫である、、、名前ははまだない、、、

私が中学生だった昭和30年代の事、

                                                夏目漱石の小説が、

                                                                  クラスで大流行りだった。

「坊ちゃん」も面白く読んだ。

        赤シャツが何とも、、、その時代に居そうなキャラクターだと思って読んだ。

明治の文豪は、物事を視る視点がインターナショナルな舞台に立って書いている。

「心」や友情も、エゴと客観性と、本来人間に備わっている業に近い自己愛が見え隠れする。

 

文明の開化で、

     生き残りをかけて、

          表現に新しい時代を察知しながらも

                   自分だけは生き残らねばと、

                       自分の居場所を、今、ここに求めようと自分に生きてゆく。

        徳川幕府の残したものは、後々の世まで

                東軍だったか、、、西軍だったか、、、?

            後々の世まで、遺伝子の中で、優性遺伝となって表れてゆくのは

                            イト、、、オカシ。。。???

私は、相当な政治音痴で、イデオロギーというものが、教科書的にしか理解できない。

与党が政権を主導し、野党が、主導の通り実行した場合の数を提示し

バランスが取れて、協力体制がとれているのが国会だと、良いとおおうときがある。

 

 

 

島国の閉ざされた300年間は、

「俺」「俺」、、、「俺様、、、」と言えば良いのか?

桜田門の事件などは、井伊直弼が、未来ある若者の考えに同意出来たとしても

その、、、若者が、、、あまりにも優秀だと、自分を脅かすと考えたのが

民主国日本の

      政治体制が出来るまでの過程には

                日本の未来よりも

                     自分の意見が

                  時代から見放されることの方を

                        危惧したという心が有ったとする見方の本にも

                                         出会ったことがある。

 

兜の上に、トンボや、カブトムシや、三日月や

                永遠の少年の心が生き続ける、、、「男」の心、、、

私は、男3人女1人の戦後の生き残った男たちと

戦争を知らない、、、戦後生まれて、、、

終戦後の日本を建てなおした団塊の世代の弟と、

戦前までは白い手袋で、勅語を朗読していた祖父と

剣道5段だった父が他の祖父と、

男性家系の中の紅一点だった割りには、、、、

             愛されるとか、、、

                     可愛がられるとかからは無縁だった。

たぶん、、、男女の区別をして

    「女性らしく優しくしている余裕がない時代」に

                  生まれてしまったのだと思います。

 

終戦の後は、軍隊と言う「男の世界」が、

法の下に「自衛隊」となって

国難に対して、偉大な復元の集団力で国民の感謝を感じてくれていると思うのですが

アラビアの近くの海では、

                                     日本の船が被害に遭わないように

                                                          守ってくれていると新聞で読みました。

明治までは、国定忠治や、清水次郎長、の芝居を観て、

                  庶民は泣いたり笑ったりしていたのですからね   (^^!

koyoino kotetuha ,,,tini ,,ueteiru ,,,とか、、、言って、、、刀かざして、

                         芝居小屋は拍手喝采だったのですからね。

 

それが、ザンギリ頭を叩いてみれば、、、文明開化の音がする。。。

 

一人称の時代から、国を統一するという時代に入ったのですから、、、

さあ、、、大変です。

 

日本タンポポしか見られなかった島国に、

 

西洋タンポポの時代がやってきたのですから、、、!

 

チャンバラで腕を磨いたものが勝利と言う個人戦から

団体戦に切り替わりましたよね!

 

明治維新を得て、世界への目が開けてゆく人と、

閉鎖したまま、、、海につながる河口の風景のように

川魚と、海の魚が同居していた時代が、かなり続きましたよね。

 

北極海も、南極も、、、、宇宙のような遠い所でした。

 

明治20年代に生まれた母のお父さんは、祖父ですが、、、

             三つ揃えの姿しか思い出せないのです。

 

南紀の南朝をお守りする村落の旧家の家の一つだったのかもしれませんね?!

          何ものだったのかは、、、詳しくは知りませんが

明治の時代にしては少数グループだったと思いますが、、、

                      

                    青山の師範学校に進学して

                       終戦後は疎開先の村落で

                           町長さんや、村長さん

                             校長先生など

                     疎開村の物知り博士として

                         頼まれれば、、、町長でも校長さんでも

                            中央との政治家の話の解説なども

                                 村の学者さんでした。

     母方の祖父は、17歳の家庭科の先生だった母とオジサンを産んだ女性と結婚していました。

  しかし、、、母が7歳の時に、肺結核で早逝しています。

当時、、、肺結核は、、、現在の新型コロナと同じ扱いを受けたそうです、

孤独な隔離された別宅をつくって、1人、、、寂しい生活だったそうです。

子供たちにも、絶対に、母親の所に行ってはならないと

地域からも、父からも学校の先生からも申し渡されていたそうです。

7歳の母は、、、真夜中の誰も見ていないときに

母の離れに組み込まれている土台の部分の丸太のやぐらを

そろりそろり、、、と、、、よじ登って、母に逢いに行ったそうです。

「クラスで、小さな鋏が流行して、、、持っていないのは、、、自分と弟だけだから、、、」

病気の母に、「鋏を買ってほしい」と、、、日参したそうです。

母の答えは同じだったそうです。

      「我慢しなさい、、、これからは、、、我慢が出来ることだけが、、、大切だからね。」

祖母は、幼い7歳の母と、5歳の叔父さんを前に、、、頑固なまでに

                       「我慢をしなさい。」

       「夜だから、大人たちが観てないからと言って、、、母さんに逢いに来てはいけない。」

                    幼い母と、叔父さんは、、、

            村中で尊敬されているお父さんと、結核で隔離されている母と、

                    最悪のバランスの家庭の中で、

                 村の親戚のおばさん方の手伝いに来ている自宅で

                     不安な毎日を過ごしながら

                    幼い兄弟の、、、、自分達の居場所ではなかったそうです。

              孤独と言う、若き実母の、伝染病の中で

                         信じたくない現実を突きつけられて

                    母が死んだと、効かされた時に

                    思わず母の離れ屋に向かって走ったそうです。

                  母の離れ屋は、燃やされてされてしまったそうです、

        

            新型コロナだけが、、、悲劇ではなかったのですよね、、、、。

                 日本の歴史に残されている伝染病の中には

                  現在の新型コロナとの同居は

                  いかに、、、緊張した、目配りが必要かがわかる出来事が

                   推測されるような記録も出てきます。

 

              祖母は、才媛で村人の信頼を集めていた

              人気者で、明るい人だったと、

                 親戚からは聞かされています。

 

                     17歳で、

            学校の先生の資格をもらった優等生だったと。、、、

                仙台平の袴などは、、、村人の来ている羽織も、

                    ほとんど祖母が縫ったそうです。

 

アメリカ帰りの夫の三つ揃えなどは、

街からテーラの縫子さんに来ていただいて、

教えてもらうという努力家だったそうです。

初めて、、、男性の三つ揃えなどを

目の前で見た時は

目から鱗が落ちたのでしょう、、、ね?

さすがに、、、テーラーは難しすぎたようでした。

 

            その後、、、肺結核にかかって、、、祖母は早逝しました。

祖父は、単身に戻ったわけですよね、、、、。

子供たちは新宮の親戚の家に預けて

祖父は、、、自分の夢を追いかけて、アメリカ大陸へと出発しました。

27歳で、サンフランシスコ、

          ロスァンジェルスに留学したままでした。

 

家族は、日本の親戚に預けたままで、我が道をゆくという、、、

私には、難解で、理解できない、、、。

、当時の日本議会政治への黎明期の出来事ですよね!

しばらくして、、、時代は

           町人の時代が到来します。

三井、、、三菱、、、住友、、、

銀行というものが、経済の根っこのように

            日本中に経済の波が来ます。

ハイカラさんを造った時代でした。

あの頃の師範学校は筑波大学の前身だと思うのですが、、、

                日本からアメリカに行くのには、

                              汽船で

                                3ヶ月もかかったそうですから、、、

                 お爺ちゃんの武勇伝は、汽船が嵐に逢ったときに

                              生死の境を彷徨った恐怖の海から、

                    ゴールデンゲイトブリッジが見えた感動で幕でした。

 

 

母は新宮高校から、東京の音楽大学に進み

当時としては、

女性のキャリアウーマンの先発隊の一人だったのではないでしょうかね~~~

東京都の女学校の音楽教師になっているんですね、、、!

「なんで?音楽の先生になったの?」

私が質問すると、、、

母も、、、ピアニストになろうと思った時代が有って、、、

親友が一足先に、コンクールで優勝して

           ヨーロッパに留学したのだそうです。

母のイメージでは、彼女は成功すると思っていたそうです。

ヨーロッパからの彼女の手紙には

「自分の才能の限界が見えてしまった、、、」と言う手紙を最後に

消息が途絶えた時、

日本の当時のクラシック音楽のレベルが、

まだ、、、成熟するのには、、、遠い道のりなんだと思ったと言っていた、

 

先の見えない世界に入ったと思ったそうです。

   山のあなたの  空遠く、、、幸い住むと,、、ひとの言う、、、

   あァ、、、われ、、ひとと、、、とめゆきて

   涙さしぐみ,、、かえりきぬ、、、

 

   山のあなたの、、、なお遠く、、、

               幸い住むと、、、ひとのいう、、、

母は、私に、「カール ブッセ」の詩の言葉で答えてくれました。

べ―トベンの運命も、元の音符は、、、ジャジャジャ、、、ジャン~~~~ではなくて

                  ジャジャジャジャ、、、ジャーン,、、、、なのよ、、、。

リストにあこがれていた母でしたが、

女学校の音楽を教えているうちに

世の中が、、、戦争、、、また戦争、、、と、、、

富国強兵時代だったみたいですよね。

母は28歳!!!、、、独身でキャリアウーマンを通すか?

結婚して、富国強兵の国の方針に従って、

外国を見るのはこれまでにして、、、日本国民として

国策に準ずるかの剣ヶ峰に居たようですよ、、、。

その時、教え子の生徒たちが、

全日本音楽コンクールで、初優勝を飾ったそうです。

女性教師に厳しかった職員室の雰囲気は、

女性教師のキャリアーとしての実績を認め始めてくれたそうです。

全日本の優勝と言う音楽部門を担当していた母に

校長先生からも、女性の進出を応援する計画が出された矢崎に

母は、、、音楽家としては、、、存続できないだろうと思われる

外科医だった父と、結婚してしまったのですよね。

後は、、、女性のお決まりのコースです。

外科医の奥さんと、子育てと、、音楽が両立する時代ではありませんでした。

母は、親友が、ヨーロッパで、自分の才能をはかなんで消息を絶った時から

日本の〉クラシックは、駆け出したばかりだと思い知らされたそうです。

しかし、、、もう一人の学友は、大学に生涯をささげ、、、

女性の教授として、明治生まれの女性の生き方を大きく変えたと思いました。

晩年、母が、紆余曲折を得て、、、東京に帰還したとき、、、

55歳から、ピアノ教室や、コンサートをするようになりました。

その時、母のピアノ教室のコンサートには、

母校、国立の大学院生らが、参加してくれているのでした。

あの時、、、母は、私に言ったことを覚えています。

「彼女たちは、花束を一番、、、喜んで受け取ってくれるから、、、」

、、、と。

私は、母の注文どうり、

花屋に行きました。

ガラス戸の中に保管されているバラの花の、、、香りのよいものを選んできました。

そして、、、花屋さんが、トゲを全部取ってあるかを確認して、

大きすぎず、、、小さすぎない花束を頼みました。

母の生徒たちも、

先生の母校の

音楽大学からの参加があることが刺激になったのでしょうかね?

お弟子の中から、音楽大学に進む男女の成都が育ちました。

55才の母が、未亡人になってから始めたピアノ教室は

母が80歳を過ぎても、なお続いていました。

80歳を過ぎてからの母の音楽コンサートは

もう、、、娘の手を借りなくても

育ったお弟子たちが、会場を埋め尽くして、

花束は、出演者全員に受け取ってもらっていたそうです。

日本においては、、、

結婚は

キャリアウーマンと、母親とを

両立させられる土壌は、、、昭和の時代は限られたものだけだったようです。

學校の先生、、、音楽の先生、、、看護師さんが

かろうじて、

家庭と、

キャリアウーマンとを兼任で来ていた時代鴨しれませんね。

 

 

ハイカラさんは、海を泳いで、、、、サンゴ礁だけ見て帰ってきたㇼ、、、。

クラシックの音符が、日本に入ってきたㇼ、、、

 

近衛さんはドイツから、

「運命」の

クラシックの譜面を日本に届けた。

 

明治生まれの、、、ハイカラさんだった私の母は、

 

新しい世界を見つけて、、、、音楽大学へ進学した。

実に、、、国立音楽大学の、、、第一期生と言うから、

びっくりです。

 

TVは白黒がまだあって、

 

一流とか、、、三流とか、、、

カースト制度のような

貧富の階段が見え隠れしていた。

世の中が変わっても、、、

本当に音楽に出逢っていた母は、

55歳の未亡人になってから、、、音楽の世界に戻っていった。

30年間、、、80歳になっても現役だった母は

ジャンルは違っても、、、学者として、臨床医として、、、

癌の早期発見の夢を追って

医学の道を歩いた弟の思いやりの葬送で、母は旅立った。

残されたグランドピアノは、、、お弟子の中の一人の女性に贈られたそうです。

私は60歳を過ぎてから、、、実家への里帰りが出来ない状態でしたので

母とは20年以上も会えないまま、、、死に目にも

間に合いませんでしたが、、、

実の娘の私が、お寺さんに到着できた時には

弟野勤務するがんセンターの黎明期の夢実現の真っただ中の同僚が

お寺の境内にテントを設けて、60人以上の弟の仲間たちが

母の生涯を賛辞してくれました。

80歳で、、、現役で、、、境内は、お弟子さんが成長されて、、、

ご家族で、来てくださり、お手伝いに来てよかったと思いましたよ、、、と。

喪服に裳着替えずに、黑いブラウスとパンタロンで

お寺の厨房からのお運びをしていた私に

「お姉さんですよね!、僕は、、、弟さんの患者でもあるのですよ!」と

優しい顔をしたロマンスグレイの紳士が

お寺の厨房まで、やってきて、

「お運びは、誰かに頼んで、一緒に、母さん見送る時間ですよ」

周りは知り合いも居ないし、

兄弟の嫁さんがカイガイシク喪服の御着物で、

頑張ってくれているし、、、

北海道は遠いので、、、私一人の参加なので

目立たないように、、、母の大往生を見送りました。

それでも、、、北海道に帰ってくると、、、

人生の危機のように、、、立ち上げれないような喪失感が押し寄せてきました。

北海道には知人も友人もつくらなかったので、、、

母の無くなった事を知らせる人も居ませんし、、、

息子達は大学の授業を休ませたくないし、、、

主人は、、、例によって、、、患者さん一番の人ですから

あえて東京まで行って、病院を休まなくても私が行けば、

兄弟は納得すると思いました。

孫たちが婆ちゃんを囲んで、大騒ぎしています。

「静かにしなさい!おばあちゃまが眠れないでしょう!」

小学生に入学した姪っ子が大声で、

幼稚園の弟たちや従妹をたしなめています。

思わず、、、笑ってしまいました。

不謹慎ですが、、、笑顔になってしまいました、

「お母さんに、、、心で伝えました、」

「向こうに往ったら、、、54歳のお父さんを

    見つけることが出来るかしらね?、、、」

あんまり若くてハンサムなので、、、お母さんはびっくりするね!」

弟のおかげで、、、母は人生を全うできました。

北海道に、、、閉じこもった人生の縁というのは、、、神の技としか思えません。

何度も、、、帰ろうとしたのですが、、、

東京から北海道への道は、縁という不思議な力で運ばれてきましたが、

ひとたび、東京に還ることとなれば、、、

自分中心には動けませんでした。

家族が、、、道産子として育ってきた以上は

郷に居れば郷に従って、、、家族の心の活力を守らねばなりません。

私さえ、、、、北海道に住んでいれば、、、

家族の心は明日に向かって、頑張る心が癒えることは無いと信じています。

コロナで、、、死んでは寂しすぎるから、、、

自宅待機で、コロナの感染が避けられるのなら、、、

頑張れるだけがんばります。

コロナが収束したその時には、、、

54歳で伴侶を無くしても、、、

55歳から、音楽に人生の後半を生きた母の強さは、鏡です。

75歳まで、、、雑用に走り回った私は、、、周りが偉く見えます。

コロナの怖さは、、、死んでも、、、家族と会えないという事ですから、、、

絶対に、、、私は、、、感染しない!!

                 コロナが収束するまで、

                       緊張して、最善を尽くし事を誓います。

 


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