花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

コロナが収束する日に向かって、

2020-09-25 02:45:24 | Weblog

毎日毎日、、、家事に明け暮れています、

毛布をベランダに干して、まくらカバーや、シーツを洗って、

カーテンと、ミニマット類を数枚洗いました。

ベランダに洗濯ものを干すときは、、、幸せです。

空が見える、、、羊ケ丘が見える、、、空気が美味しい、、、

 

医者の家の家族もろとも、、、「汚い、、、」と言う

                                               風評が在るのは仕方ありません。

結婚を機に、2年か3年住むつもりだった北海道に

50年以上も住むようになりましたが、

                初めの3ヶ月で

           カルチャーショックになりました。

 

昭和44年、、、札幌は24条あたりまでしか開けていませんでした。

キタの12条に住んでいましたが、このあたりには

          お店も無くて、

あるいて15分ぐらいの車道に面した通りに

            生協があって、唯一の頼れるショッピングの店でした。

銭湯があるいて10分ぐらいのところに在り、

     主人が奨学金で借りたアパートは、

             北大に歩いて30分ぐらいの所でした。

 

2DKとはいっても、、、6畳と、北側の3畳は冬はつららが部屋の中にあるという、、、

断熱材も入っていない、、、冬の暖気の日の湿気が有るので、

長靴や、雪かきスコップの置き場になっていました。

主人が生まれた昭和15年は、日本が何かと不安定な外交で

一色触発の戦争の気配が漂う時代だったと思いますが、、、

 

昭和40年代は、戦後のドサクサがようやく復活し始めて

     万博や、オリンピックが

         盛り上がり

所得倍増と、白黒TVが叫んでいました。

主人次男という事もあり、、、

   明治生まれのご両親は「長男」以外は育児義務?終了感覚で

7年間の、北大在学中も、わずかな仕送りと、、、奨学金で通学していたというのが

        当時の学生模様です。

アパートの前は砂利道で、、、

         ハマ薬局さんと言う薬局が有って、

                 いろいろと、商品もそろっていて、

                   育児のミルクなどは、ここで買えるので助かりました。

開業医で育った私は、アパート暮らしも、銭湯通いも初めてでした。

3時に開店すると同時に、

       誰も居ない湯ぶねにつかり、、、タイルの絵を眺めながら

自宅の風呂においては

       味逢う事のない   のびのびとした手足を浮かべて、

北海道の勤務医の、

        貧しい中にも、贅沢な風呂通いでした。

          アパートの前の砂利道の土埃は、春と秋には猛烈な土埃を巻き上げて、

            窓ガラスは白っぽくなり、、、すりガラスと変身してゆきました。

主人が借りていたアパートに

母が来てくれて、

「結婚したのに、風呂が無いなんて、、、と言って

  現在の「ユニットバス」の元祖のような

ほくさんバスオール、、、とか言ったかしらね?

23万円の、一畳の、簡易シャワーを、主人を促して設置してゆきました。

大家さんには、ここを出てゆくときには置いてゆきますからと、

交渉は、大家さんの笑顔でOK 。

父は明治生まれの数少ない外科医でしたから、

   母はモダンガールでしたから

北海道の、奨学金で大学院に行っている国立の外科医の卵の状態の主人が

戦後の自分たちの周りの苦学生と重なったと言っていました。

青白きインテリ、、、と言われた時代に、

青年たちは、貧しい暮らしの中で、

日本を復活させていったのですからね。

6月まで、、、独身で、自主自立のキャリアウーマンを目指して

総合病院で、それなりの給料を戴いていたのに、

11月には北海道で、職も無く、、、小さなアパートで

「生きるか死ぬか、、、大学院で論文を書きながら

   医学博士を取得せねば、、と、

自分の事しか考えていない、、、苦学生に

        母は、何か?、、、ピーンとくるものが有ったのかもしれません。

現役で病院に勤務中の薬剤師を

      退職してまで、、、北海道に

                早逝した父の空席を埋める外科医を迎えに

1人の完成された社会人になっている女性の人生がヘヤピンカーブの運転に

      頭の中が真っ白になっているという

            私が、まるっきり、、、動かないので

        外科、内科の「個人開業」の存続の為の

              意気高揚に向かう為とはいえ、、

母にとっては、目下、応援を必要とする医師の卵の時代に

           応援も出来て、家族に成れる「外科医」が

         54歳で急逝した父の残した

              一日150人と言う外来の患者さんたちを

                  引き受けてもらえると、、、

           母なりに、地域への責任を果たそうとしていたのかもしれません。

                北海道は、東北薬学大学の進出しているところであり

   先輩も、後輩もほとんどいない、、、当時の日大卒は

           再就職するというよりも、

              知人を作らねば、、、と、、、

                万策尽きた、孤独な結婚生活の始まりでした。 

  

     北海道の医師は恵まれていると、根拠もなく考えていた母は

    現実を目にして、医師の免許を取得した後、

   「医師をするという事が、、、いかに難しいことであるか、、、」

   「我が家への応援状況どころか、、、奨学金の一括返済から始まったのでした。」

   次の時代の苦学生の為に、奨学金は、返済しなさいと、母から言われ

      結婚最初の仕事は、奨学金返済をして、

          アルバイトをしながら、細々と、、、

               貧しい結婚生活のスタートでした。

    主人の方は 次男独特の、、、人生の深海に何が出てくるか、、、

      泳いでゆく事しか考えない、、、

         家庭は振り返らない、、、結婚生活が始まった。

       結婚式を控えて、我が家に泊まってみて、、、母は、、、       

学生のままごとのような結婚生活に

      しばらくは言葉も無かったようですが、

「カーテンぐらいはしないとだめよ、、」と、我が家のように率先して

三越に、カーテンをオーダーしてくれました。

三越は、札幌に開店したばかりでした。

17000円の家賃のアパートに、30000円以上もする上等の布の

    オーダーカーテンを頼んでくるなんて、、、

       信じられないカルチャーショックの中で

           母の、、、イケイケの応援で

              やっと、、、現実の、、、自分の置かれた立場が

     これから長い、、、主人の博士号取得に付き合って

        医局の御奉公がすんだら、

   父の亡き後の開業施設を、兄と、従兄と、弟と、私の主人と

           法人の病院にして、

    戦争前の、院長だった父の病院を取り戻したいと

           母は、、、思っていたのかもしれません、、、ね。

    

      

              

    50歳代前半で、、、未亡人になった母の事を考えると

       母と暮らせる人でないと、、、先が見えなかった。

    母が気に入る人でないと、、、結婚はしないつもりだった。

    戦後の、、、日本復活の時代の女性の地位は

             男の兄弟を前面に立てて

            周りから必要な仕事をこなすという

                暗黙の身分差別が存在した。

       女性の地位は理不尽な差別で、軽く配置換えをされた時代だった。

            

   世の中は、、、どんどん変わります、、、

主人が博士号を取得したのは7年後でした。

      開業への「税制優遇も無くなり!!!」

   兄が立ち上げていた「開業施設を病院にするという目的での会」

     解散された。

       開業の時代は、税制優遇が無いと、、、サービス業になった今

          感染症にも、個人経営では四苦八苦する自転車操業のような

        銀行管理となったり、、、独立法人となったり、、、

    医師をすることが人生であっても、周りの応援団も、親族も

   「医師は一代限りで、、、芸術家と同様に、、、相続する何ものも無いのでした。」

施設は、、、法人化されて、、、国の物になりますから、、、

バンカブルに動かないと、時代からとり残されてゆきます。

   しかし、、、バンカブルに、時代にしがみ付くことは

      日進月歩の医学の世界、、、

       日進月歩の医療機械の進展、、、

        日進月歩の学門の世界は、、、

          ピークには30個ほどの学会に所属して

             頭の中の維持費に

               国家公務員の月給がそのまま支出になっていた。

 社会的には未来を、、、漠然と信用されて、、、銀行からは融資は受けられた。

そのころ、、、兄は、、、父の残したすべてを売り払い

               閉院した。

23人の従業員への退職金

  公認会計士さんや、男性従業員への天職の世話など、、、

「開業を辞める、、、閉院するのが、、、こんなに大変だとは、、、!」

晩年になって、、、ポツリと言っていた。

   コロナの時代。。。

      親の代からの店を閉店するところも出てくるでしょう。

 天の力は、、、人間が予測できない。

   時間と言う、、、最も大きな、、、味方であり、、、敵であり、、、

全てを癒す、、、時間と言う、、、不思議な支配。

  人間にとって、。時間医支配されているという、、、絶対。

短いようで長く。長いようで短い人生に、、、

   果たして、、、お金を貯めている暇を、、、天は下さるのだろうか?

経済に先んじれば、、、地球の表面を削っているうちに

       人生は終結して、、仕舞うのでははないだろうか?

結婚に日から、、、時間はすっ飛んで消えていった。

76歳の。。。お婆ちゃんは、、76年の間の思い出せることを

日記に記しておいた。

                

 

    

   結婚式の前に、主人が借りてくれたアパートに

          母が来てくれましたので、

    町の案内を兼ねて、私も、初めてでしたが、、、、

古くから、札幌に在ったと聞いた

           「五番館」と呼ばれていた、

           現代の「西部デパート」の前身の店に行きました。

           

       母は、そこで、、、

    桐の箪笥の三点セットを買うと言い出しました。

私は、6畳と、ダイニングしかないアパートに、

         桐は似合わないから、

         ダンボールと、壁紙で、

         ロッカーは造るから、、、と言ったのですが、、、。

 

          三越で高級カーテンンをオーダーしたり

          桐の箪笥の三点セットを買おうなんて、、、、、、

        頭がどうかしてしまったのだと思いました。

 

          風呂のない、、、17000円のアパートに、

         オーダーカーテンや、、、桐の箪笥は、、、

            スットンキョウな違和感があるから

           カラーボックスで良いから、と言ったら、

 

           浜松にピアノ塗装する店を知っているから、

          いつの日にか自宅を建てた時に

             結婚当初からの箪笥を使ってくれると、

          母の肩の荷が降りるという、、、一方的な自己愛の母。

            結局、話し合って、

     3点は無理だけれど、2点なら、アパートに入れても、、、

                   何とかスペースはあるという事で

            2点の桐のの箪笥に、セットを崩して再度、

       ピアノ塗装の夫婦の通勤服の入る所が、出来た。

 、           一見するとデコラバンの白に見える

           白色のピアノ塗装の箪笥が2週間後に、

                      狭いアパートを占領して

                            さらに狭くした。

           母は、帰りがけに、、、主人がTVを視るのが好きだと聞いて

          「20インチの高雄」と言う。木枠のオーソドックスな、

          およそ、、、APの安い造りの部屋には

             似合わないクラッシクナデザインのTVをセットして

             ダイニングルームのど真ん中に、、、

         東京方面では見たことのなかった「鉄製のストーブ」をセットした。

           結婚そのものが、、、主人と母との、

          利害関係で、将来我が家を手伝ってくれるという、、、

              54歳で、急逝した父の後の、

        自宅で母と住んでくれるという未来の婿殿、、、?

              母と主人で、部屋をつくりあげてから、

          母は、、、千歳空港に向かって帰路についた。

          11月の寒い日に、札幌会館と言う、、、何やら、

            学生にはもってこいの会館で

            北大の教授ご夫妻の晩酌で、はるばる母も参加して、

               結婚式を挙げました。

結婚式にも出席した母は、東京に還る時に、、、「元気でね、、、」

       他人様の土地で暮らすのだから、

           土地で受け入れられるまでは

                顔に、墨を塗って、、、何もしないで暮らすのよ、、、

      苦しくなったら、東京に帰っておいで、、、」、、、と言ったとき、

母は、父の居なくなった後は、長男だけに集中するという

       女性乍ら、、、黒田官兵衛のような咲く詩だったのかもしれないと、、、

    母の前ではいつまでも、、、赤ちゃんでいなくてはいけない、、、父の早逝!

        自分には、薬剤師と言う腕があるから、

         父母からいただいた、応援はこれだけで充分だと

            ありがとうしかない、、、。

                

            あの頃は、収入が無くて、、、とじこもりました。

          今は、不急不要を避けての閉じこもりです。

           コロナ収束に向けて、

              昔話が、私の中で、走馬灯のように

              生き抜こうとする灯りの周りを

                グルグルと、、、回ります。

 

これは、、、記憶朧な、、、日記です。

あと、、、2年ぐらいは、coronaとの戦い、、、あるいは共存、、、あるいは収束?

昔の苦労を思い出して、、、大丈夫!!、、、

 コロナの収束の日に向かって、、、頑張れます!

 


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