花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

知的財産

2008-11-15 11:24:38 | Weblog
昭和40年代のころ
        学生運動が盛んでした。

        多くの学部の学生たちは
        授業そっちのけでデモに参加しました。

       医学部も「青医連」とか「◎×連」など
       国家試験をボイコットしたり、激動の時代でした。

       その頃、日本にはCTも
       「ラセンCT」もありませんでした。

       CTという言葉さえ、
       一般の人には
       ほとんど知られていませんでした。

       親指のように太い胃カメラが、出始めていましたが
       カメラの部分が
       回転しないものでした。

       東大の実験室に勤めていた私は
       医学部の5年生に
       クリヤランスの測定方法などの
       技術を実践して
       ピペットの洗い方や
       自然乾燥しないとファクターが狂うという
       実践からくるコツを話したりすることもありました。
       業務の延長の仕事として、
       若い世代の学生さんの実験のお手伝いもしました。
       学生さんと五月祭を見て歩く事もありました。

    昭和40年代の初め、

   東京大学の医学部の学際には
   太い胃カメラがまっすぐに
   展示されていました。

   5年生の学生さんが
   胃カメラ飲むときはキシロカインで麻酔して、
   食道に傷を付けないようにしないとね!
   太いからね!
   等と話しながら、満足そうに手にとりました。
   「何だ?カメラのあるトップが回らないんだ?」

   医学部の5年は知識満タンの医学者の卵で、
   早く鳥になって飛びたくて飛びたくて仕方ないようでした。

   空の話をしながらも、
   実践ゼロの一言に、

   私は思わず申しました。
   ガラスファイバーで胃カメラを創る人たちですもの!
   そのうち、蛇みたいに自分で口から滑りこんで
   管空臓器を這いまわって、
   「ハイ!データーです!って差し出す胃カメラが出来るわよね!」
   と、冗談を言って大笑いしました。

   実に、あれから40年!
   冗談ではない現実がやってきました。
   
   夢にあふれている

   五月祭を今でも思い出します。

   医療のレベルが時代とともに進みました。

       父が「がんセンター」という言葉を
       しばしば口に出すようになりました。

       当時、がんセンターには市川平三郎先生や
       崎田先生という
       著名な先生方がいらっしゃいました。

   当時は卒業すると医師は医局に所属して、
   絶対の権力者であり
   実力者であり
   親父殿であった教授の愛の鞭を受けながら
   部下として所属し
  、自分で考える事を許されるまでは
   「ハイ」しかなかったという時代だったそうです。

   その時代に、医局をを飛び出してまで、
   指導を受けに多くの医師ががんセンターに研修に行ったのは
   なぜだったのでしょう!?

   当時としては劇的な
   「二重造影」という、
   胃の中にガスを入れて
   二次元の扁平だったⅩ線を
   立体に撮影するという斬新さが
   医学の世界の学生を魅了したようでした。

   母校の医局を離れてでも

   二重造影や、
   胃カメラを習いに来ていると
   ある(内科医師)は
   万感の思いで語りながら、申しました。

   がんセンターの技術が習得できて
   がんの初期のうちに見つけて患者さんを救えるなら

   「博士号」はいらない!、、、と。
   彼は熱っぽく語りました。

   今や「博士号」は
   博士号を与えた学校の方が誇りを大切に満足している
   権力の称号に変わっていったのでした。

   教授の後継者とか、教授の笠下で生きる医師にとっては
   研究歴を証明する大切な履歴書だという医師もおりました。
   博士号は、縦関係の強い公務員などの仕事に就く者にとっては
   必要不可欠な履歴証明である事は周知のとうりです。

   しかし、現実の病気と闘う医師たちにとって、
   博士号より、臨床の力を客観的に評価し、
   全日本の多くの実力者から、臨床力を証明された
   認定証や指導医師としての合格証明書の方が
   実践現場で必要な時代になってきました。
  

   医学部や医局や博士号が
   従来とは変わりつつあることを熱っぽく語ってくれました。

   博士号は習得した大学の称号であり、
   研究歴の証明にはなるが、
   大学評価が各大学によって雲泥の差があり、
   全日本的には
   臨床力の実力を証明するものではないそうです。



   博士号なるものの評価は
   元来が「取得した学校の出した称号」であり
   共通評価ではない以上
   日本中で皆が認めるレベルまで
   到達しているという証明ではないということです。

   実践の医学の力を評価されるものではない
   ということなのでしょうね!

   しかし、当時は
   一代センセーションとなった
   日本初の「心臓手術」は
   生命体の奥の深い、未開の部分を突き付けてきました。

   外科の
   繊細な技術と
   生化学や薬理分野や

   免疫学の博士たちとの

   綿密なコラボレーションが
   必要だったかも知れないと
   結果が医学にブレーキをかけた時代も思い出されます。

   しばらくの間、
   日本は移植手術に踏み切る
   大学病院がありませんでしたよね?

   東大の基礎の学者コースにいる大学院生に
   いろいろインタビューしてみました。

   結論は、患者さんと付き合う暇があったら、
   生命の不思議に迫りたい。
   僕は僕の「なぜなんだろう?」という
   自分の疑問と一生付き合ってゆくつもりだ。

   毎日患者さんがやってきて
   診療する人生は僕には耐えられないほど、
   自分がイナイ、、、。

??????????????
   私にはよく解らない答えが返ってきたことを
   最近になって、ふと、思い出すのです。

   自分に生きる、、、ってこと?
   「俺様の、生きてる実感の瞬間が最高」?って事?

   基礎医学者は、
   ほとんどが、
   先生や教授や学長に選ばれてゆくので
   権力は得られるが

   下手をすると
   学問は日進月歩の世界なので
   機械の方が論文の結果を1日で出してしまうので
   「何もしなかった実験者」になることがある。

   「なんか?やってたつもりの人生」になったら困るよね!

   大学院生は遠くを見つめて、
   自分を嘲笑するかのように
   目をそらせて笑ったのが印象的だった。

   これからは、臨床医は
   「実力評価の時代」であるからして、

   がんセンターで研修して
   実際に、
   初期の癌を見つけて、
   患者さんを救えるかどうかが大切である。

   がんセンターはすでに斬新な医学の最先端であり
   CTの開発を始めていた。

   やがて、二重造影の時代はCTやラセンCTの時代になってきた。

   難攻不落の「肺がん」も初期のそのまた初期の影とらえる
   すごい時代に入った。

  
   ラセンCTやCT,MRI 超音波、ペット等
   医師の艱難辛苦を乗り越えた画像診断力と、
   医師が望む画像を映し出すべく努力を惜しまなかった
   日本の東芝や、島津や技術提供の多くの会社の技師土地の
   「夢を追い続ける超人的な努力のコラボレーションを
   日本の国は応援したからではないでしょうか?!」

  日本の国の誰が理解者だったのか?!
  国立がんセンターの物語は、
  単行本になっているので、超スピードで

  世界のがんセンターになっていった歴史が
  私ごとき「ばあちゃん」にも
  わくわくしながら、読みふけることができた。  

  病気を「三国志」の物語に重ねたり、
  軍師を医者に重ねたりしながら読みふけると面白い。

  がんセンターの
  若き医師が「CTを撮らしてください」と、
  頼み込むシーンには、
  読み終わってから涙が出てくる。

  忙しいからと、なかなか協力しない医師たち

  知らないということ 
  理解していないということ
  解らないという事は

  時には残酷な仕打ちを知らないでしてしまうのだと思った。

  「若き夢追う医師」は
  「患者さんに痛みを感じさせないで診療したい!」
   「がんは初期だと治る率が高いので、
    なんとか、初期のうちに発見したい!」

  

   家族団らんのとき
   築地に「がんセンターが出来たよね!、、、」
   若くして死んだ外科医の父が

  現在のがんセンターを訪問したら何と言うだろう!
  X線で潰瘍の出来ていた両手で
  唇を震わして、
  言葉の出ない様子を想像したりする。

  
   父が死んだあと、

       二重造影で
       胃の中が立体に見えるレントゲンフィルムを
       感動して眺めていたのは
       内科医の兄でした。

       父が言っていた「がんセンター」に
       兄と私は見学に行きました。

       当時としてはびっくりの
       回転するレントゲンを
       目をマン丸くして見つめました。

       やがて、
       オリンパスの社長さんと出会いました。

       胃カメラを造っていた「オリンパス」の
       会社のトップの人たちと話すことが多くなりました。

      「カメラの首が回るのを開発できないでしょうか?」
       「もっと細くて、しなやかで円のように
        曲がるものが出来ないものでしょうか?」

    あるご縁があって
   「社長さんが自宅に見えられました。」

    兄は両手で
    胃の形を作り、

    「胃カメラを大きく曲げられないか?」
    又、
    「回転することによって
    胃カメラを動かさなくてもカメラの回転で
    胃内を取れないか?
    胃カメラの先に
    病理の為の組織を取るものを付けられないか?」

    などと、社長さんと、喧々諤々
    アイデアを話し合っていました。

    数時間に及ぶ団らんの話は
    私ごとき者は口をはさめる話題ではありませんでした。

    兄の胃カメラの購入は
   、留まる事のないテーマのように
    新しく出ると買うのでした。

    コンピュータのCPUの変わるごとに
    買い換える現在の若者とおんなじでした。

    当時。胃カメラの請求書には
    70万~150万の数字が
    私を圧倒しました。

    普通のサラリーマンが
    月給3万円ぐらいの時ですから、、、。

    収入の15割を胃カメラにつぎ込んで
    いつも、よれよれの背広を着ていました。

    内視鏡室には道場の竹刀のように、
    何本も太さや長さの異なる胃カメラが並び、

    崎田先生から、
    指導医を許されたころ、

    胃カメラ室の電圧とイオンの動きまで把握するほど
    でした。
    
    
    胃カメラは
    医療において無くてはならない時代になっていました。

    その胃カメラも、
    3次元の螺旋CTの出現で
    大きく役割が変わってきたと思います。

    実に、
    政府が理解を示した時代のことで
    日本の医療を
    世界の医療たらしめた築地の物語が
    三国志と重なって
    面白く読めるのです。

    出来てしまった手遅れ癌を
    眠る暇もなく切除する外科医の
    空しい努力も救われて、

    患者さんの癌の早期発見により
    「若き夢を追い続けた医師、CTにこだわり、
    画像にこだわった医師と技術人」の夢は

    現実になり

    彼らが言っていた「痛みのない治療」が
    手遅れにならない治療が
    検査によって実現する時代が来たのですね。


   「夢追う若き医師たちの姿を

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