≪生徒が「先生を流産させる会」 いすに細工、給食に異物≫asahi.com/2009年3月28日10時43分) 愛知県半田市の市立中学校で、担任に不満を抱いた1年生の男子生徒十数人が「先生を流産させる会」と称し、妊娠中の30代の女性教諭に対し、いすのねじを緩めたり、給食に異物を混入したりしていたことが分かった。 同市学校教育課によると、生徒らのいたずらは今年1月から2月にかけてあった。教諭の車にチョークの粉やのりなどを混ぜ合わせてふりまいたり、いすの背もたれのねじを緩めたりしたほか、消臭や殺菌、食品添加物などに使われるミョウバンを理科の実験の際に教室に持ち帰り、教諭の給食に混ぜたという。 こうしたいたずらを見かねた周囲の生徒が2月下旬、別の教諭に伝えて問題が発覚した。担任がけがをしたり、体調を崩したりすることはこれまでなかったという。 学校側が事情を聴いたところ、席替えの方法や部活動で注意されたことへの不満を口にする生徒がおり、「先生に反抗しよう」という話が持ち上がったのがきっかけだったことが分かった。学校はその後、保護者を呼んだうえで生徒を指導し、生徒らも反省の態度を示しているという。 |
校長は「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない。命の重さについて、より指導を徹底していきたい」と話している。
「個々にはいい子たち」であっても、集団になると断ったら悪口を言われるのではないか、仲間外れにされるのではないかなどと恐れて本人の意に反して巻き込まれたり、唆しに加わったり、あるいは仲間にいいところ見せようと積極的に煽動したりして自分を維持できなくなることがよくあることだから、学校教育責任者としての校長の立場としては、集団を形成しても自分を維持できるかどうかを問題としなければならないはずだが、そこまで考える洞察力は持ち合わせていないようだ。
また「軽いのり」であろうと、「計画的」でなかろうと、動機が取るに足らないからといって、結果が動機の範囲内の他愛なさで終わるとは限らない。ちょっとした悪ふざけから殴り合いの喧嘩となり、殴り合っているうちに相手を殺してしまうことだってある。「先生を流産させる」企みが他の生徒の報告によって結果オーライで終わったに過ぎない。一向に流産しそうもないとなったなら、何かのキッカケで手口が悪質化の方向に進まない保証もない。
当然、生徒たちがそういう行動に出たこと自体を問題にしなければならない。校長は生徒指導や生徒管理に向けた自身及び学校の責任に関わってくるから、生徒の行動を限りなく矮小化し、併せて自分たちの責任を小さくしたいがために取るに足らない出来事だと済ませようとしているのだろう。
そういった責任回避意識が問題がどこにあるかの客観的認識性を曇らせることになる。いや、最初から曇っているから、当たり前の振舞いとして責任回避意識が働くのではないのか。客観的認識性が確固とした形成を受けていたなら、問題の所在から目を背けることは難しくなって、責任回避の方向に向けた意識は働きにくくなるはずだからだ。
校長は「命の重さについて、より指導を徹底していきたい」と言っているが、学校教育者にふさわしい、当然備えているべき客観的認識性を欠き、当たり前のように責任回避意識を働かす人間に指導などできようはずはない。
単に言葉だけのことは伝えることができる。「人間の命は非常に重たいものです。大切にしなければなりません」といったふうに。「お年よりには親切にしましょう」とか、「バスや電車電車に乗ったら、席を譲りましょう」とかと同様に、既にある言葉(既成の知識)を使って、単に機械的に伝えるだけのことはできる。
日本の教育が伝統としている教師が与える既成の知識を生徒が既成の知識の範囲を出ないまま受け止めて自分の知識とする暗記教育・暗記式知識授受に則った教え方だからだ。
既に多くの人間が言い、手垢がついているにも関わらず命に関して既成化している知識(常套句)を利用し、単に受け継ぐに過ぎない。そういった形式の教育からはまともな客観的な認識性は生まれない。
深刻ないじめを受けて自殺する生徒が出ると、学校校長は決まりきって「命の大切さを伝えたい」、「命の重さを教えたい」と言うが、生徒それぞれの内面に響かせて生徒に人の命を深く考えさせることができたと言えるのだろうか。教師だけではなく、生徒にしても既成の知識を伝達・授受する暗記教育に慣らされている。言葉としてのみ発し、言葉としてのみ受け止めて終わらせているといったところではないだろうか。
妊娠した女教師のおなかの子を流産させる――もし成功したなら、胎児殺しだけで終わらない。ある意味女教師自身を殺すことになる。命の喪失感を彼女自身の身体と記憶に巣食わせることになるからだ。命の喪失感と共に生きることが彼女の当たり前の生命感を少なからず奪う、あるいは損なうという意味での“殺人”である。
女教師が生徒に何も期待していなくても、それでも流産させられたなら、生徒に裏切られたという思いが彼女の命を損ないもするだろう。
「命の重さ」など、どうせ「指導」できないだろうから、生徒たちのしたことが最悪の場合、どういう結果を生むか教えるべきだろう。子供の命だけではなく、ある意味先生の命も奪うことになったかもしれないんだぞと。しようとしていたことの重大さを。
「命の重さ」を「指導」できっこがないのは「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない」といった認識とは正反対方向の認識の発動によって可能となる教えであることが何よりも証明している。
命の保障とは、十全に生きる権利の保障を言うはずである。十全に生きるとは、喜怒哀楽の感情を他からの何の制約も抑圧もなしに発揮できることを言う。喜怒哀楽の感情を抑圧したり制約を加えて歪めたり、暗い鬱々とした姿に変えていい権利は誰にもない。喜怒哀楽の感情発露の十全性が保障されて初めて、生命は生命として存在し、あるべき人間の姿を取ることができる。
以前自作HP「市民ひとりひとり」に次のようなことを書いた。一部抜粋だが、参考までに。
≪第33弾「なぜ、人をいじめてはいけないのか≫(2000/11/12(日曜日)更新)
※人間はただ単に息を吸ったり、吐いたり、呼吸だけして生きているわけではない。その人なりの喜びや怒り、哀しみ、楽しさの喜怒哀楽の感情や考え、生き方を持ち、それらを土台とした自分独自の世界を築いている。いわばその人なりの「自分」を持ち、その「自分を生きている」。その人なりの「世界」持ち、その「世界を生きている」。 ※勿論、その世界は自分に独自のものでありながら、身近な複数の他者の世界と否応もなしに関わり、交(まじ)わっている。他者とその世界を自分と自分の世界に受入れながら、それでも自分とその世界がお互いに独自なものとして成り立っているのは、一人一人異なる「自分」を土台としているからである。 ※「自分を生きる」ということは、「自分らしさ」の維持に他ならない。誰もが、「自分らしさ」を維持したいと願っている。常に自分は「自分」でありたいと願っている。そのように願わないのは、自分で「自分であること」を否定することになるからである。 ※いじめ(暴力・無視・悪口etc.etc.)は人それぞれが「自分を生きる」ことを歪めたり、妨害したりすることである。「自分の世界を生きる」ことへの邪魔立てに他ならない。「自分らしさ」の維持への抑圧そのものである。人それぞれの「自分」を攻撃することでもある。 ※いじめを行った瞬間、いじめた人間は「自分を生きる」ことを否定されてもよいと宣言したのと同じことになる。「自分の世界を生きる」ことも、「自分らしさ」を維持することも、歪められても、妨害されても、誰にも文句を言えないことになる。 ※相互に、「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」を認め合うことによって初めて、すべての人間が「自分を生きる」ことが・「自分の世界を生きる」ことが・「自分らしさ」を維持することが・自分が「自分であること」が許される。 ※自分だけ許されて、他人には許さないのは不公平で一方的な約束事となる。 ※みんなが、それぞれの「自分」を認め合う関係となって、自分が「自分であること」の権利が生ずる。それなしに、社会の一員としての権利・資格は生じない。 ※言い換えるなら、自分が「自分であること」を相互に尊重しあうことによって初めて、社会の一員としての権利・資格が生じる。さらに言い換えるなら、誰かをいじめる人間は自分が「自分であること」の権利・資格(=社会の一員としての権利・資格)を自分から放棄することになる。 ※いじめることが「自分であること」の一部、あるいはすべてだという「自分」とは、どのような「自分」なのだろうか。教師はそのことを生徒に問うべきである。問うべき言葉を持つべきである。 ②「なぜ、人を殺してはいけないのか」 ※答は簡単である。「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」は常にすべての人間の権利としてある相互性のもので、誰であれ、人を殺すことによってそれを侵してはならないからである。 ※いじめとの関連で言うなら、「自分を生きる」こと・「自分の世界を生きる」こと・「自分らしさ」を維持すること・自分が「自分であること」の妨害・攻撃・否定がいじめなら、人を殺すことはそれらの完全否定・完全抹殺であり、社会からの完全排除となるからである。それはその人間の存在と暗黙の社会的契約としてある相互性そのものへの完全否定・完全抹殺・完全排除に当たるからである。 ※教師は生徒に、常に常に、君たちはどのような「自分を生きている」のか、どのような「世界を生きている」のか、どのような「自分」なのか、問うことをしなければならない。自己認識能力・他者認識能力の獲得訓練となるからであり、それは当然、対人感受性の育みへと重なっていく。 |