15/7℃
昨日は神戸の孫の同志社大学入学式に参列した。昭和40年代だったと思うが京都にいた頃、京都御所北側の今出川の校舎が手狭になり京都府の南の綴喜郡の田辺町に分校を造り一部移転する計画が打ち出され話題となったが、その後のことは全く関心なくなった。孫の話によると同志社大学の入学式は全学部がで京田辺校地行われるそうで、神戸からはJR東海道線尼崎駅で乗り換え、JR東西線の電車で同志社前で下車し徒歩約10分(800m)で京田辺キャンパスに着くがJR西日本で大学名とは吃驚である。キャンパスに入ると入学式のるデービス記念館までまた10分ほど歩くと記念館に着く。入学式は各学部により10時・12時・14時と3部構成で行われるが孫は12時からで神学部、法学部、心理学部、グローバル地域文化部での入学式だった。会場は1000人ほど入場できると思われるが新入学の学生一人に対し両親の他に家族も参列しているので2Fの家族席も満席である。
式は前奏から賛美歌234Aを全員起立で合唱し、聖書朗読と祈祷が始まったが、繁尿症がはじまり式場を出てトイレに走った。外出時にリハビテイパンツを穿いて出てきたのが良かったのでトイレを探しているいる間にチビッテしまった。
式場に戻ると総長の式辞が述べられており、終わるとカレッジソング1番の斉唱、その他があり約1時間で終了した。新入生は学部ごとに退場し、各部のガイダンスルームへ向かい続いて各部ごとの新入生父母説明会場へ向かったが我輩は足も遅く、キャンバスを見ながらJR同志社駅前で待つことにした。京田辺キャンパスは79万m2の地に同志社女子大、および中高学校があり、煉瓦タイルで統一された周りの景色と美しく調和しているが欧米のキャンパスと比べるとグリーン(芝生)が少ないように思える。
帰りは緩やかな坂道で同志社駅前に近づくと同志社女子大の正門の前にベンチがあり一休憩し、駅にはベンチが無く駅前をぶらつくとコンビニがありファミリーレストランがあった。
駅へ行くと休憩ベンチが無く再びコンビニのベンチで10分ほど休んでいると長女と家内の姿が見え駅に着くと丁度JR尼崎駅行きの区間急行が来たので車し、JR尼崎駅で下車し、遅い昼食で金沢が本店の回転すし店で鮨を食べて帰宅したのが17時30分ころだった。大学の入学式は長女の長男以来で同志社大学なら格好の良い爪入りの学生服の大学帽子が見られると思いきや新入生は黒のスーツでネクタイを締めた立派な社会人姿であり戦前生まれの同年輩の大学生の姿は全く無く、やはり、もう立派な時代遅れの高齢な老人であることを認識した次第である。
コメント
工学部で大学院まで行かれて卒業とは凄い
就職先もさぞかし、大手企業でしょうか
孫は今、人気の「グローバル地域文化部」なので今出川校舎のようで京都でワンルーム生活の予定だそうです。
工学部だったので、6年間今出川キャンパスとは無縁だったようです。
コメント
詰め襟の学制服に角帽子それにマント姿、懐かしく、憧れでした。
昭和40年代京都へ転勤した時、代理店のお爺さんが京都の大学生のことを「学生はん(三高の学生を含む)、どうやん、りちゃん」と呼んでいました。(今は死語のようです。)
つまり、「学生ハン(さん)」は京大生で「どうやんは」同志社大学で「りチャン」は立命館の大学生でその大学の性格で区別していたそうです。
また、関西では「関関同立」と言われる大学生の区別(京都、大阪帝大は別格の大学)の区別もあったそうですが、現代は皆、若者に人気のある有名校です。現代はマグロの養殖で近畿大学が全国大学の人気がナンバー1だそうです。
(関東でも東京6大学、東都大学、その他の大学と区分されていました。)
コメント
戦前の大学キャンパスは狭く、戦後は教育制度も変わり欧米の大学キャンパスに変わりつつあります。
Uチャンの大学生は古い校舎で教室ももギュぎゅ詰めででした。アドレードに滞在中、街へ出る時に南オーストラリア州立大学のキャンパスを通り抜ける近道がありキャンパスは広く一面グリーンの中に教室があり、よく学生食堂で昼食を食べました。キャンパスを通り抜けるまで30分近く掛かりましたが、これが欧米の大学かと吃驚です。
同大の京田辺キャンパスも似ていますがグリーンが少ないです。
日本の大都会の大学も郊外に移転し、欧米に近いキャンパスに移転しているようです。
関西の大学も吹田や都会の衛星都市に移転しています。
我々の時代の学生は親から離れ、貧乏学生なのに都会は何もかも珍しくてアルバイトと遊びが主体でした。
現代の大学生は学びが中心のようです。
快晴の下、入学式に参加され有意義な楽しい思い出になったことでしょう。
さすが有名大学、立派なキャンパスです。
私が入学の時は詰め襟に角帽でした。
もう最近は角帽を被った学生はセレモニーでも殆どみられないですね。
幸せな春ですね・・・・