現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尺八大名 島原に死す

2014-11-26 18:59:18 | 虚無僧日記

江戸城で「殿様踊り」に合わせて尺八を吹いたという「板倉重昌」は

天正16年(1588年板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。

松平正綱秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。

寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となり出陣。

しかし、一揆の抵抗は強く、西国の諸侯は 小禄[の重昌の命に

従わず、乱は長引いた。 そこで、幕府は老中松平信綱を改めて

大将として、島原に援軍を送ることとした。これでは “武士の面目が

立たない”。板倉重昌は 寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を

命じるが、4,000人ともいう大損害を出す。そして重昌も突撃を敢行し、

眉間に鉄砲の直撃弾を受け、戦死した。享年51。

板倉重昌の嫡子「重矩」は、後に 老中や京都所司代を務め、

5万石にまで加増される。子孫はその後、下野烏山藩武蔵岩槻藩

信濃坂木藩、そして最後は陸奥福島藩主となり、明治まで続いた。

 

 


『名古屋叢書』 第24巻 「昔咄」に「殿様おどり」に尺八

2014-11-26 18:20:00 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第24巻 「昔咄」 近松茂矩 

P.124 

寛永の頃、公方様へ御三家様、諸大名より「小姓踊り」を仕組まれ

あげられし事有り。御家(尾張徳川家)より御あげの踊りの章歌

多かりしが、その内、専ら後々まで残りしあり。これを御国(尾張)

にては「殿様おどり」と言ひならわしぬ。

この歌は「堀正意」作にて、当初は三味線は無く、小鼓、太鼓ばかりの

お囃子なり。・後日、盲女座頭の琴三味線を加え用いる。

(前歌) 雲のよそなる もろこしまでも なびけばなびく君が代の

   いく千代 いく千代と かぎりなのきみ 

(踊り歌 第一)

   さすが あづまの みやことて、春はにしきを さらすかと

   花も色いろ 咲き染めて つらさも 憂さも忘るる御世は

(間の手) 

  知るも 知らぬも おもしろや 知るも 知らぬも おもしろや

【以下省略】

  紀州様よりは 「吉野の山を 雪かと見れば、雪ではあらで 花の吹雪よ」と。

  これを 「紀の国おどり」 といへり。

この踊り、江戸御屋敷にて、毎日七ツ頃より稽古ありし。

「板倉内膳正重昌殿」 御心安く出入りされ、尺八上手なりしが

稽古の時に参られて、尺八を吹きて合わされしが、いと面白かりし。

間もなく、島原の城にて討ち死にされる。

 

 これは、大名も尺八を吹いたという 珍しい記録です。

その尺八は、虚無僧尺八ではなく、歌舞音曲に合わせる

短い「三節切(みよぎり)」だったと思われます。   

 


『名古屋叢書』続編 16 天海和尚のこと

2014-11-26 15:59:16 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 続編 16 「金城温古録」 

第60之冊 「三之丸」の3 東照宮の部

P.249 神君御在世の時、天台の宗旨を御聴聞。

天海和尚御師たりしかば、御身の後までを仰せ置かせられし。

敬公(尾張藩 初代藩主・徳川義直) 御宮御造立の初め、

また、天海和尚へ請はせ給うひしかば、まず申し上げられし也。

この時、敬公 御年20歳に成られる。

P.252 「開基天海僧正略伝」

「両部神道口訣鈔」に、「南光公坊天海、慈眼大師」

「釈了意記」に曰、「天海は 室町幕府 11代将軍 足利義澄

(在位 1495-1508年)の庶流に足利伝助義近と言ふ者あり。

奥州会津の人なり。摂州難波に寄居住す。或る夜、夢の知らせあり、

門前の桐の下に捨て子あり。拾ってこれを養育す。若年にして

和州長谷寺に出家す。中年に及びて叡山に居住し、「南光坊

天海」と号す。

「塩尻」に「天海は足利義澄の子。一説には奥州会津の芦名氏成り」

とも云えり。

「寛永覚書」に「寛永20年、大僧正天海 病危急。この人の歳、知る者なし、

百十歳と云う。三卿(尾張、紀州、水戸の各徳川) 御見舞いあり。

その時、「芦名甚三郎を召し出して欲しい。このこと一つ心に懸かる」と、

三卿に頼まる。 

 

(私注) 鎌倉から室町にかけて、会津の支配は、三浦一族の「芦名氏」。

「盛隆」の後、常陸佐竹義重の弟「義弘」を迎えて跡を継がすが、

伊達政宗に攻められ、常陸に帰る。関が原の後、佐竹氏は秋田に転封。

芦名は角館に居住す。「義広」は 寛永8年(1631年)病死、享年57。

角館の芦名氏は三代続いて、1653年承応2年)の蘆名千鶴丸の死に

より断絶。

寛永20年(1643) 「甚三郎」は尾張公に召しだされて対面したと

あるが、「甚三郎」とは誰か、芦名の系図には見られない。

 


『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) より

2014-11-26 09:28:42 | 虚無僧日記

古書を処分するため、興味のある記事を、ここに書き残して

おきます。

 

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) p.376

「感興漫筆」 30

会津にて 吉村清兵衛と云う人、松平下野守殿 御遠行の時、

大いにおどろき、会津の川を おぼえず 向こう岸へ走りて渡る。

かくて たちかへる時に、さてこの川を どうやって渡ってきたのか

思案しけれども 記憶なし。還りは 舟に乗りて 越えたりと。

 

(「火事場のくそ度胸」のような話ですかな。尚、このページに次の記事あり)

 

〇文久2年8月20日 高須侯(義建) 卒。64歳、

(注)「高須松平義建」は、実は水戸の義和(保友)の小として1800年

江戸の水戸藩小石川邸で生まれた。父義和(保友)は水戸徳川家

部屋住み身分であった。

「義建」は、1804年に高須松平家に末期養子として入り、高須藩を

相続した。会津藩主「容保」の実父である。

 

 

 

 


『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 08:43:42 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) p.372

「感興漫筆」 29  

文久2年 閏8月末より 若宮八幡宮境内にて、虎の見世物が出る。

木戸代48文。 中でさらに8文を取りて、虎の芸を見せる。

天竺国の境、交趾(ベトナム)で捕えたたる虎なり。紅毛人ウイスと

いふ者 横浜へ持ち来たりしを 伊勢松坂の鳥熊といふ者 買取りて

見世物にす。「これまで おいおい来たものは皆 豹(ヒョウ) なり。

真の虎が、渡ってきたのは、このたびが初め 」 と云う。

虎は 巾9尺(2.7m)、奥行き4尺(1.2m)の 鉄格子の檻に入っていて、

養虎者が 棒を叩いて、「寝よ」と言えば、仰向けに四足を上に上げて寝、

「起きよ」と言えば起き。「座れ」と言えば座り。「左手を出せ」と棒を

差し出せば、棒の上に左手を掛け、「右手を出せ」と言えば、また

同じようにする。「唸れ」と言えば、口を開け、爪を起こし、養虎者に

向かって飛びつくがごとくにして「フーフー」といふ。

虎身の大きさ牛の如く。長さ7尺(2.1m) 、背高 3尺5寸(1.05m)、

目方 75貫目(270kg)。

 

右、同時に唐鳥類の見世物あり。木戸代25文。大鷲を第一とし、

白のオウム、異国産ゆえ まだ、和語を言ふことできず。

猩猩インコ、純赤で美。 青インコ。 達磨インコ、止まり木に

止まって動かないので達磨といふなるべし。緋インコ、その他

十数種あり。 鳳鳥なりとて函に納められた剥製もあり。

 

 


古書からの転載 『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 08:43:31 | 虚無僧日記

ダンボール30箱もある古書を 全部処分したい。

処分する前に、必要な箇所を、このブログに書き写しておくことにします。

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

「感興漫筆」 下ノ1 p.46

北肩村の処士「岩田与一郎」は、笠松の儒者「角田俊作」の門人なり。

与一郎 江戸に在りし時、添川完平方に寄宿す。添川完平は会津の人。

江戸小川町今川小路に住ス。浪人し、安中侯・板倉伊予守が、家臣に

取り立てようとしたが、「会津に生まれたれば他君に仕えることは欲せず」と。

それで板倉侯出入りの儒者として10口俸を賜る。完平は篤実の人なり。

家貧し。与一郎薪水の労を助け、幼児を抱負して完平に仕え、寵遇される。

 

「感興漫筆」 22   p.112

安政6年8月22日 玉野井村、賀茂明神の祭りを見る。

凡そ1里半じかり、郷民、花車、笹踊り、飾り馬などを出す。

花車とは小屋の下に車を付け、中で 太鼓、三絃、小鼓を奏し、

童子を飾り踊らしむ。往古は、太鼓と小鼓だけで、笹のみを持って

踊った。

 

 

 


『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 07:57:03 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

「感興漫筆」25   p.191 

万延元年 六月 

〇山崎闇斎先生、会津侯(保科正之)に招かれ、仕官には非ずして、

政事を輔け家臣を教え給ふ。侯(保科正之)五百人扶持を賜う。

侯(保科正之)薨ずるの時、先生(闇斎)会津に往きて喪事を統宰し給う。

葬祭は神道による。喪事を終えて、先生(闇斎)は、速やかに会津を辞し、

浪人の山崎嘉右衛門として、(徒歩で)立ち去られた。この事、今もって

会津の人、先生(闇斎)の出処に明らかなるを歎美せり。

会津の藩中は一般に先生の学風を学ぶ。会津藩の人は勤学励し、

江戸学問所の学頭の内には 何れも会津の人一両人ずつあり。

 

(当家の先祖、牧原半陶直亮も、江戸学問所の学頭を勤めていました)