現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

松見寺に夕鵞と愛璿の碑文

2016-06-30 22:21:28 | 虚無僧日記

千葉県袖ケ浦三黒にあった虚無僧寺「松見寺」に愛璿が起草して

夕鵞が書いたという碑文があるとのこと。その全文が、虚無僧研究会の

機関誌『一音成仏』第30号(平成12年)に載っている。

 

「夫(それ)神は風雨を領し禍福を掌(にぎ)る。正直を以て躰とし、霊験を

もて用とす。されば是を祈るものは己が心を正しく至善至直の性を認得す。

これを祀るに礼を以てし、祈るに理を以てし、事祀るに信を以てする時、

神と我一に和して感応ここにあり。ここに橘姫を祀る神社は、往昔、夫が

海の難に遭った時、身を海底に没してたちまち是を救う。(以下略)」

文意は

この松見寺の傍らに神社があり、そこに祀られている橘姫とは、

日本武尊命が、東征で房総沖に差しかかったとき、暴風雨となり、舟が

沈没しそうになった。その時橘姫が「竜神の怒りを静め和らげん」と

海中に身を投じた。そのことに天地は感応し嵐は静まり、日本武尊命は、

無事に上陸することができ、吾妻(あづま)よと叫んだ。予(自分)も

志を等しくして共に祈る。神は忠誠を憐れみてその災厄を解除してくれた。

我、神徳に感謝し、後人に善を勧め、悪を懲らさんと、心の行くところ

言葉は露を玉とあざむかず、誠実を素として記す」というもの。

「現清山寺の不着愛璿が欽白し、松見寺看主の友鵞が謹んで書く」と。

つまり、仙石騒動で無罪となれたのは、日ごろ誠を尽くして

この神に祈ったから、霊験あらたかなりというもの。事件から

解き放たれた感謝の意をこめて建てられたものと分かる。

 

松見寺の建物は現在は無いが、三黒の旧家吉田氏宅に友鴺の認めた

短冊があり。

「ありがたき御代や 草にも照る 月夜」

「おろかさの限りと思ふ おのが身を 世に知られたる名さえ恥ずかし」 

 


仙石騒動異聞 神谷を救った愛璿の墓

2016-06-30 18:58:35 | 虚無僧日記

虚無僧友鵞こと出石藩の脱藩浪士神谷転が町奉行所に捕らえられた時、

夕鵞救済に奔走したのは「一月寺の役僧」愛璿(あいぜん)。

その愛璿が元会津藩士と知ってびっくり。私の先祖も会津藩。

会津藩のことなら何でも知っているつもりだが、愛璿のことは

会津には記録はない。

愛璿(あいぜん)は、一月寺の江戸浅草にあった番所(出張所)の

出役として三度、漢文体で長文の見事な上申書を奉行所に提出し、

寺社奉行を動かした。なかなかの学識と気骨があった。さすが

会津藩士である。

一月寺役僧「愛璿(あいぜん)は、仙石騒動の前年まで、駿府(静岡市)

無量寺の看主で、天保5年(1834)千葉県船橋市の清山寺看主に転住している。

そして友鵞が捕らえられた時は、江戸浅草にあった一月寺の出張所

(番所)の役僧として奉行所との交渉役を務めた。清山寺と兼務だったのだろうか。

愛璿の墓は、船橋清山寺と青梅の鈴法寺にもある。いずれも天保12年(1841)

4月10日となっている。調べたら、愛璿はその後、青梅鈴法寺の看主となり、

清山寺は友鵞が跡を継いだ。

青梅鈴法寺は下総小金の一月寺とともに虚無僧本寺である。ライバルである。

その青梅鈴法寺にも看主として招かれたのだから、愛璿はよほど徳と力が

あったのだろう。

そして愛璿が天保12年(1841)に青梅で亡くなった一年後、一周忌に

友鵞が清山寺にも愛璿の墓を建てたとのこと。友鵞はそれほどまでに

愛璿を深く慕っていたのだ。


仙石騒動異聞 神谷転の墓

2016-06-30 11:24:28 | 虚無僧って?

尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。

「転(ころ)びという手が用いられているから」とか、

「曲調が回転するように展開するから」とか、また「仙石騒動の

神谷転(うたた)が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」

という説もある。それで以前から神谷転に関心を持っていた。

このたびネットで調べていて、東京中目黒の永隆寺に

神谷転の墓があると知ってびっくり。私の叔母の家のすぐ真下。

何度か前を通っていた。

この寺は、元は港区三田小山町にあり、仙石家とその藩士の

菩提寺だったそうな。明治35年この地に移転。その際、

仙石家の墓はすべて出石に移されて、今はない。

なぜか神谷転の墓だけが移されたという。神谷は藩に復帰したのだ

ろうか。否である。

神谷転は事件の後、船橋清山寺の看主となり、天保14年に亡くなり、

清山寺にも墓がある。

神谷転は仙石騒動の裁きで一躍忠臣になったのだから、出石藩には

復帰できたであろう。親戚筋の旗本から復職の話もあったようだが、

神谷は「お家の内紛を明るみにしたことで、出石藩は五万石から

二万石取り上げられ、三万石になった。家臣も三分の一減らさなければ

ならない折、復帰はできない」と虚無僧に留まった。また体調も優れな

かったという。そして天保14年、船橋清山寺で亡くなったという。

ということは、目黒永隆寺の墓は?

神谷転の墓には側面に妻の法名も刻まれている。そして隣には兄夫婦の墓。

兄嫁は仙石左京によって殺された河野瀬兵衛の姉妹とのこと。

そもそも騒動の発端は、河野瀬兵衛が脱藩し、天領の生野銀山で

捕らえられたことからだった。身内の死が神谷転をして仙石左京への

恨みを増したのであろう。