戊辰戦争のミステリー
「西郷隆盛」も「西郷頼母」も遠祖は、南北朝時代、九州の南朝方の忠臣「菊池」一族と称しており、同姓、同族のよしみで、二人は、明治になって書簡で交流があったとの噂話があります。
「西郷頼母」の子は「吉十郎」といいます。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。弟は「西郷吉二郎」で、戊辰戦争の際、新潟県長岡市で戦死しています。偶然とは思えない共通点があります。
西郷隆盛は、西郷頼母が 非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために頼母との 接触を望んだ。西郷隆盛は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、 会津藩の山田陽次郎(頼母の実弟)と志田貞二郎(頼母の妻の兄弟か、後に養子に迎えた四郎の父)に 会い、西郷頼母との連絡を求めました。
西郷頼母は8月26日、殿より密命を帯びて、一子吉十郎を 連れて、密かに鶴ケ城を出、越後口の萱野権兵衛長修のもとへ行っております。その後、頼母が米沢から 仙台まで、無事に行っているのも不可解なことでした。米沢藩に会津救援を頼みに行った他の会津藩士は皆、米沢との境で阻止され、米沢領内には入れませんでした。頼母は西郷隆盛から薩摩藩士の護衛を付けられて米沢を通過できたのではなかろうか。
西郷頼母は11歳の一子吉十郎を伴って、米沢から 仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流して、箱館に赴いました。
そして、翌明治2年箱館戦争となり、榎本武揚に対しても降伏を勧めたといいます。箱館戦争終結後、「頼母」は東京に護送され、館林藩に幽閉されます。この年、会津戦争の首謀者三名の家老の首を出せとの新政府からの要求に、筆頭家老である西郷頼母は行くへ不明として、末席家老の萱野権兵衛長修が死罪となります。これも西郷隆盛の助けがあったからではないか。
明治2年9月東京へ護送された西郷頼母は 館林藩に 幽閉されますが、わすが5か月で明治3年2月11日幽閉を解かれます。
明治4年春、頼母の子吉十郎が隆盛の尽力に よって島津啓二郎(当時13歳)と共に米国に留学します。
9月、頼母は隆盛の斡旋によって、伊豆半島の江奈村 (現松崎町)に行きます。この地は、かつて慶応3年5月、西郷隆盛の 依頼により、頼母が会津藩士大島篤忠を 鉄砲基地調査のため 送りこんだところ。
頼母は一旦帰京した後、翌5年春、再び、江奈村に入り、 大沢村の差配大家依田佐二瓶平が設立した「謹申学舎」の 塾長となります。
その年の10月、西郷隆盛は、小田原、湯河原、 下田に至って頼母と共に南伊豆の「鉄砲鍛冶旧跡」を視察しています。
西郷頼母の子吉十郎は西郷隆盛の尽力により、明治4年 米国のアナポリス海軍兵学校他へ留学し、9年4月に帰国。 鹿児島で西郷隆盛の弟西郷小兵衛方に起居。「私学校党」に 与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において2月27日負傷したため、西郷小兵衛の計らいで、長崎の洋医のもとへ送られました。西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、銃弾に当って戦死しました。
明治8年、西郷頼母は磐城国の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となりましたが、11年に職を辞しています。理由は、頼母が西郷隆盛の挙兵(西南の役)に与(くみ)して、資金援助を行おうとしていたという疑いを持たれたためというのです。息子吉十郎が西郷隆盛の下で戦っていたのですから。
吉十郎はその後、東京に移り、明治12年に病死しています。
西郷隆盛と会津の西郷頼母がこれほど関わっていたとは、 全く知られておりません。事実か否か、出典史料は殆ど無いのも事実です。