家康のブレーン「黒衣の宰相」として知られる「南公坊天海」。
その出自は不明で「明智光秀」ではないかとも噂される。
もし「光秀」ならば、116歳まで生きたことになる。
出生は謎だが、関ヶ原の役や小田原北条攻めの時は家康の参謀として傍らに控えている。
天海着用と伝えられる甲冑
家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸の町の設計に大きく関わった。
こんな逸話もある。
100歳の時、将軍・家光から柿を拝領した。天海は 柿を食べると、
種をていねいに懐紙に包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光が からかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。
「桃栗3年、柿8年」。8年後、天海から家光に柿が献上された。
家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が 実をつけました」と答えたという。それで108歳まで生きていたことは確実らしい。
「きんさん・ぎんさん」バリの話だ。
江戸の鬼門を守る寺として上野に東の比叡山「東叡山寛永寺」を創建してその住職となった。その寛永寺は幕末、慶応4年7月4日、彰義隊が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けて、全焼壊滅した。天海の呪術も時の流れには逆らえなかったか。
『東叡山開山慈眼大師縁起』には「陸奥国会津郡高田の郷にて生まれ給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されている。蘆名は、鎌倉・室町と会津を支配した領主。伊達政宗によって滅ぼされた。
一昨年、虚無僧で会津高田を訪れた。今は「美里町」と町名が変わっていた。一軒一軒門付けして廻っていると、突然の夕立。
丁度、図書館の前だったので、入り口の庇の下で雨宿りしていると目の前に「天海僧正誕生地」の碑があった。案内板では「蘆名氏の女婿 船木兵部少輔景光の息子で、その両親の墓が見つかった」と。
読んで納得しました。
天が「天海僧正生誕地」を、一路先生に指し示す為、足止めしたのですね。