現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

西郷頼母のその後

2021-07-06 18:17:41 | 会津藩のこと

西郷頼母は、明治13年(1880年)、旧主「容保」が日光東照宮の宮司になると、禰宜として仕えた。そして明治20年(1887年)、職を辞し、「大同団結運動」に加わる。会津と東京を拠点として活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため 政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った。

明治22年(1889年)福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、
明治32年(1899年)辞職後、再び若松に戻った。
明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。

大同団結運動」とは、明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が発布され、明治23年(1890)の「帝国議会開設」に備えた自由民権運動各派による統一運動。

1882(明治15)年、会津盆地の北、喜多方市で、自由民権運動に端を発した暴動が起きる(福島事件)」。これをきっかけに、全国各地で激しい暴動が起き、政府は「自由民権運動」を弾圧するようになる。

西郷頼母もその運動に関わり、「大日本帝国憲法」の発布の年、政治から身を引き、霊山に籠もったのである。




この間「西郷四郎」は・・・、

明治19年(1886年)「警視庁武術大会」で西郷四郎ら講道館柔道が優勝したことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用される。
皮肉にも 時の警視総監は「三島通庸」。福島事件で、自由民権運動を弾圧した県令だった。



明治22年(1889年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、嘉納が洋行中の明治23年(1890年)、『支那渡航意見書』を残し、忽然と講道館を出奔する。この時25歳。

それは、西郷頼母が「霊山」の神官になった年でもある。
そのご、四郎は「宮崎滔天」の「大陸運動」に身を投じた。

中国は 1840年のアヘン戦争、1894年の日清戦争で清朝の基盤がゆるぎ、1911年「孫文」らによる「辛亥革命」が起きる。中国では、日本の明治維新を鏡とし、また自由民権運動に敗れた志士たちは、大陸に夢を馳せ、中国の革命を後押ししようとした。

西郷四郎は長崎に行き、鈴木天眼が明治35年(1902)に創刊した「東洋日の出新聞」の編集長を勤めた。

そして、「西郷頼母」は 明治36年(1903年)会津若松で亡くなり(74歳)、
「西郷四郎」は 大正11年(1922年)尾道で亡くなります。(57歳)。

さて、「頼母」は自由民権運動、「四郎」はその後の「大陸運動」に関与したようですが、やはり二人の接点は無さそうです。



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