興国寺といえば、紀州(和歌山県)由良の興国寺。
こちらは、富士の裾野を領地とする鎌倉御家人の葛山景倫によって開基された。
葛山景倫は源実朝の命を受けて宋に渡るため博多まで行ったところで
実朝の訃報を知り、引き返し、実朝の菩提を弔うべく高野山に登って出家した。
北条政子は、葛山景倫の忠心を讃え、紀州由良の地を葛山に与えた。
葛山景倫は高野山で知り合った心地覚心に、自分の代わりに渡宋を勧め、資金援助した。
心地覚心が帰国すると、安貞元年(1227年)葛山景倫は由良の地に西方寺を建てて、
心地覚心を開山に迎えた。葛山氏が建てた寺は、西方浄土を夢みていた実朝の願いを
受けて「西方寺」と名付けられたのだった。
その「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝時代、南朝の二代後村上天皇の御代。
南朝の元号である「興国元年(1340)」年と考えられる。創建から100年以上立ち
西方寺が南朝方に加担したためである。
北条早雲(正しくは伊勢新九郎)が駿河に入り甥の龍王丸を補佐して今川家当主にし、
富士郡下方を与えられたのは 長享元年(1487)。その城が「興国寺城」というのだが
それは江戸時代になっての創作話にすぎない。
なぜ、城の名前が「興国寺城」というのかも解せない。
沼津の興国寺については、その創建は全く不明。
推測をすれば、葛山氏の一族の者が、由良の興国寺の分寺として建てたのか。
北条早雲(伊勢新九郎)は、この地の豪族葛山氏の娘を妻に迎えている。
その子が北条幻庵である。幻庵は母方の葛山姓を名乗ってもいた。
幻庵は尺八(一節切)の名手で、小田原北条家の家臣は大かた尺八を吹けた。
その小田原北条家が秀吉によって滅ぼされ、最後の当主北条氏直は高野山に幽閉された。
高野山には「小田原別所」と呼ぶ所がある。
氏直は翌年には死去し、付き従っていた家臣300名は浪人となり諸国に散らばっていった。
ここからは私の推論だが、その家臣の一部が向かった先が、葛山氏ゆかりの紀州由良の
興国寺ではなかったか。興国寺は当時、信長の命を受けた秀吉によって破壊され
廃墟となっていた。その後浅野氏が入封した際、興国寺の廃墟には虚無僧が住んでいた
との記録がある。
紀州由良の興国寺の開山法燈国師心地覚心が、普化宗の日本開祖とされたのは
虚無僧となった北条家の遺臣たちによって作られたのではないか、というのが
私の推論である。