原発誘致から大震災への50年 ともに生きてきた重い現実(産経新聞) - goo ニュース
『福島と原発 誘致から大震災への五十年』福島民報社刊。
昭和40年代に福島第2原発の用地買収を担当した元福島県職員の回想。
集落には「原発反対」の看板が立っていた。地権者は原発を
「恐ろしいもの」と受け止めていた。不安を解消しようにも、
説明のパンフレットさえなかった。そんな中で、原発関連の仕事を
あっせんし、他県の原発視察ツアーなどを通じて理解を訴えた。
反対の声は次第にかき消され、「住民は『原発さまさま』と思うように
なった」。元職員は用地買収が終わったとき、部下にこう言った。
「こんな大仕事をしたんだ。あんたら、威張ってもいいぞ」と。
東電の「中興の祖」と言われる 「木川田一隆」氏は福島県伊達市
梁川町の出身。木川田氏は、当初は“原発反対”だった。原子力を
“悪魔”だとも言っていた。しかし、さしたる産業もない福島県民の
生活を少しでも良くするためとの思いで、木川田氏は、木村守江
元知事と手を結び、原発を故郷に誘致した。
その木川田氏が亡くなってから30年。生家近くの街道沿いには
「東電は放射能汚染物質を持ち帰れ!」と書かれた看板が立てられた。
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私も、昭和20、30年代の福島を良く知っている一人。農家といえば、
藁(わら)葺き屋根の納屋のような家ばかりだった。高校の修学旅行で
関西に旅した時、どの家も立派な瓦葺きなので驚いたものである。
私の父は福島県出身のよしみで木川田氏に目をかけられ、最期は
東電の会津若松電力所長で終わった。故郷に錦を飾った。定年退職後は、
東電が所管する「尾瀬林業」の監査役となった。父の兄は衆議院議員
だったこともあり、県知事の木村守江氏とも親しかった。
そんなわけで、間接的に、この50年間の「福島と原発」を見聞き
してきた。
誘致による地域振興、電力マネーのぶんどり合戦、使用済み核燃料を
めぐる空手形…。この半世紀、私たちは原発とともに生きてきた。
東日本大震災から2年半になろうとしているが、福島第1原発事故は
収束していない。除染は可能なのか、汚染水は止まるのか、廃炉は
いつ実現できるのか、故郷を奪われた住民はどう生きるのか。
いまこの時、解決困難な課題に向き合っている人々がいる。
『福島と原発 誘致から大震災への五十年』福島民報社刊。
昭和40年代に福島第2原発の用地買収を担当した元福島県職員の回想。
集落には「原発反対」の看板が立っていた。地権者は原発を
「恐ろしいもの」と受け止めていた。不安を解消しようにも、
説明のパンフレットさえなかった。そんな中で、原発関連の仕事を
あっせんし、他県の原発視察ツアーなどを通じて理解を訴えた。
反対の声は次第にかき消され、「住民は『原発さまさま』と思うように
なった」。元職員は用地買収が終わったとき、部下にこう言った。
「こんな大仕事をしたんだ。あんたら、威張ってもいいぞ」と。
東電の「中興の祖」と言われる 「木川田一隆」氏は福島県伊達市
梁川町の出身。木川田氏は、当初は“原発反対”だった。原子力を
“悪魔”だとも言っていた。しかし、さしたる産業もない福島県民の
生活を少しでも良くするためとの思いで、木川田氏は、木村守江
元知事と手を結び、原発を故郷に誘致した。
その木川田氏が亡くなってから30年。生家近くの街道沿いには
「東電は放射能汚染物質を持ち帰れ!」と書かれた看板が立てられた。
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私も、昭和20、30年代の福島を良く知っている一人。農家といえば、
藁(わら)葺き屋根の納屋のような家ばかりだった。高校の修学旅行で
関西に旅した時、どの家も立派な瓦葺きなので驚いたものである。
私の父は福島県出身のよしみで木川田氏に目をかけられ、最期は
東電の会津若松電力所長で終わった。故郷に錦を飾った。定年退職後は、
東電が所管する「尾瀬林業」の監査役となった。父の兄は衆議院議員
だったこともあり、県知事の木村守江氏とも親しかった。
そんなわけで、間接的に、この50年間の「福島と原発」を見聞き
してきた。
誘致による地域振興、電力マネーのぶんどり合戦、使用済み核燃料を
めぐる空手形…。この半世紀、私たちは原発とともに生きてきた。
東日本大震災から2年半になろうとしているが、福島第1原発事故は
収束していない。除染は可能なのか、汚染水は止まるのか、廃炉は
いつ実現できるのか、故郷を奪われた住民はどう生きるのか。
いまこの時、解決困難な課題に向き合っている人々がいる。