現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) より

2014-11-26 09:28:42 | 虚無僧日記

古書を処分するため、興味のある記事を、ここに書き残して

おきます。

 

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) p.376

「感興漫筆」 30

会津にて 吉村清兵衛と云う人、松平下野守殿 御遠行の時、

大いにおどろき、会津の川を おぼえず 向こう岸へ走りて渡る。

かくて たちかへる時に、さてこの川を どうやって渡ってきたのか

思案しけれども 記憶なし。還りは 舟に乗りて 越えたりと。

 

(「火事場のくそ度胸」のような話ですかな。尚、このページに次の記事あり)

 

〇文久2年8月20日 高須侯(義建) 卒。64歳、

(注)「高須松平義建」は、実は水戸の義和(保友)の小として1800年

江戸の水戸藩小石川邸で生まれた。父義和(保友)は水戸徳川家

部屋住み身分であった。

「義建」は、1804年に高須松平家に末期養子として入り、高須藩を

相続した。会津藩主「容保」の実父である。

 

 

 

 


『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 08:43:42 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4) p.372

「感興漫筆」 29  

文久2年 閏8月末より 若宮八幡宮境内にて、虎の見世物が出る。

木戸代48文。 中でさらに8文を取りて、虎の芸を見せる。

天竺国の境、交趾(ベトナム)で捕えたたる虎なり。紅毛人ウイスと

いふ者 横浜へ持ち来たりしを 伊勢松坂の鳥熊といふ者 買取りて

見世物にす。「これまで おいおい来たものは皆 豹(ヒョウ) なり。

真の虎が、渡ってきたのは、このたびが初め 」 と云う。

虎は 巾9尺(2.7m)、奥行き4尺(1.2m)の 鉄格子の檻に入っていて、

養虎者が 棒を叩いて、「寝よ」と言えば、仰向けに四足を上に上げて寝、

「起きよ」と言えば起き。「座れ」と言えば座り。「左手を出せ」と棒を

差し出せば、棒の上に左手を掛け、「右手を出せ」と言えば、また

同じようにする。「唸れ」と言えば、口を開け、爪を起こし、養虎者に

向かって飛びつくがごとくにして「フーフー」といふ。

虎身の大きさ牛の如く。長さ7尺(2.1m) 、背高 3尺5寸(1.05m)、

目方 75貫目(270kg)。

 

右、同時に唐鳥類の見世物あり。木戸代25文。大鷲を第一とし、

白のオウム、異国産ゆえ まだ、和語を言ふことできず。

猩猩インコ、純赤で美。 青インコ。 達磨インコ、止まり木に

止まって動かないので達磨といふなるべし。緋インコ、その他

十数種あり。 鳳鳥なりとて函に納められた剥製もあり。

 

 


古書からの転載 『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 08:43:31 | 虚無僧日記

ダンボール30箱もある古書を 全部処分したい。

処分する前に、必要な箇所を、このブログに書き写しておくことにします。

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

「感興漫筆」 下ノ1 p.46

北肩村の処士「岩田与一郎」は、笠松の儒者「角田俊作」の門人なり。

与一郎 江戸に在りし時、添川完平方に寄宿す。添川完平は会津の人。

江戸小川町今川小路に住ス。浪人し、安中侯・板倉伊予守が、家臣に

取り立てようとしたが、「会津に生まれたれば他君に仕えることは欲せず」と。

それで板倉侯出入りの儒者として10口俸を賜る。完平は篤実の人なり。

家貧し。与一郎薪水の労を助け、幼児を抱負して完平に仕え、寵遇される。

 

「感興漫筆」 22   p.112

安政6年8月22日 玉野井村、賀茂明神の祭りを見る。

凡そ1里半じかり、郷民、花車、笹踊り、飾り馬などを出す。

花車とは小屋の下に車を付け、中で 太鼓、三絃、小鼓を奏し、

童子を飾り踊らしむ。往古は、太鼓と小鼓だけで、笹のみを持って

踊った。

 

 

 


『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

2014-11-26 07:57:03 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』第21巻 随筆編(4)

「感興漫筆」25   p.191 

万延元年 六月 

〇山崎闇斎先生、会津侯(保科正之)に招かれ、仕官には非ずして、

政事を輔け家臣を教え給ふ。侯(保科正之)五百人扶持を賜う。

侯(保科正之)薨ずるの時、先生(闇斎)会津に往きて喪事を統宰し給う。

葬祭は神道による。喪事を終えて、先生(闇斎)は、速やかに会津を辞し、

浪人の山崎嘉右衛門として、(徒歩で)立ち去られた。この事、今もって

会津の人、先生(闇斎)の出処に明らかなるを歎美せり。

会津の藩中は一般に先生の学風を学ぶ。会津藩の人は勤学励し、

江戸学問所の学頭の内には 何れも会津の人一両人ずつあり。

 

(当家の先祖、牧原半陶直亮も、江戸学問所の学頭を勤めていました)


大ピンチ 貧困の中から真の芸術が生まれる?

2014-11-23 23:07:23 | 虚無僧日記

来年の「能楽堂公演」をどのようにするか。 いろいろな催し、

演奏会、演劇などを 観て廻っています。

毎日 1万円出ていくので、とうとう 貯金が底をつきました。

この3日間、以前にいただいた うどん と 非常食で

食いつないでいます。

今日の占い。「困窮の中から、遠大な企画が生まれる」だと。

「芸術家は貧でなければならない」という 格言もありましたっけ。


尺八太郎様

2014-11-23 22:43:42 | 虚無僧日記

コメント蘭に 「印伝の尺八袋」について連絡いただきました「尺八太郎様」

山口五郎師から譲られた「印伝の尺八袋」。もうボロボロですが、

それでもよろしければ差し上げます。 

山口五郎師が 3本 注文された内の1本と聞いております。

福島県の三曲協会で 山口五郎師をゲストにお招きした折、

私の叔父・山室重遠が料亭で歓迎の宴席をもうけ、そのお礼に

とプレゼントされたものと聞いております。

 

貴殿からのコメント、公開しませんので、連絡先、ご住所、お名前

お知らせください。

また、下記 メールでも結構です。

goo3360_february@mail.goo.ne.jp 

 

 


「西濃運輸ものがたり」から「くやしさを噛みしめる赤飯」

2014-11-22 09:27:56 | 虚無僧日記

中日新聞に連載中の「時流の先へ-中部経済ものがたり」

11/22  「西濃運輸」の創業者「田口利八」氏(故人)の話。

「西濃運輸」の企業理念は「花を見てみろ」。

田口利益八」氏の心の支えとなった母の言葉だそうだ。

「畦道に咲く 福寿草は、踏まれても 必ず花を咲かせる」。

「不撓(ふとう)不屈」の精神。

11/20 の記事は

戦後まもない昭和22年、田口利八は「トラック輸送の時代が来る」と

確信して、運輸省に「長距離輸送定期便」の申請をしに 上京した。

当事は、まだ食料難。国鉄の輸送もままならない時代。高速道路も無い、

国道も未舗装、ガソリンもない。運輸省のこっぱ役人は、「そんなこと

検討したこともありません」と にべもなく、門前払い。

利八は、日持ちする赤飯のにぎりをたくさん持参し、運輸省に日参した。

そして20日目に、ようやく「申請書」を受け取ってもらえ、4年後の

昭和25年、念願の「名古屋-東京間」の長距離輸送の免許が下りた。

日本初の快挙。その年の12月25日、東京行きの第一便が箱根を越えた。

ガソリン車ではない “木炭車”。 何度もエンストし、道端の枯れ枝を

燃料に ようよう 箱根を越えた。

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私も 昭和42年、免許取り立てで、従兄弟と二人で、トヨタ、ニューコロナに

乗って、京都、奈良から紀伊半島一周のツアーに出た。東名高速は

まだ厚木までしか開通していなかった。 箱根の急坂を あえぎあえぎ

時速20kmぐらいで登るトラックを、追い越す。国道1号線でも、道幅は

上下二車線しかない。カーブの向こうから対向車が来ないことを せつに

祈ってアクセルをふかす。最高時速は60kmしか 出なかった。

あの時の情景、スリルが 未だ 脳裏に焼きついている。

それだけに、西濃の第一便トラックの快挙、いや暴挙がどれほどの

ものだったかが判る。

それも、「利八」氏が、運輸省の役人に門前払いされた時の悔しさが

すべての原動力。

「セイノーホールディングス」となった今日でも、11月1日の創立記念日には

「赤飯のにぎり」が ふるまわれるとのこと。

お祝いごとの「お赤飯(せきはん)」ではなく、くやしさを噛みしめるための

古代米の「赤飯(あかめし)」のようだ。

私も、尺八では お役所は 相手にしてくれないこの悔しさをかみしめて、

今日は、非常食用の保存米の「赤飯(あかめし)」を炊いて 食(く)うべるたん。

 

(補注) 近代オリンピックの提唱者「クーベルタン」。1896年 第1回アテネ

オリンピック開催までは、イバラの道だったようです。

「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することに意義がある」と

いうのは、実はクーベルタンの言葉ではないとのこと。セントポール大寺院の

ペンシルヴァニア司教の説教に感激したクーベルタンが、晩さん会などで

語ったために広がった由。

クーベルタンはこう言っています。

「人生で重要なことは、勝つことではなく、戦うこと。 相手を打ち負かしたこと

ではなく、いかによく戦ったかが最も大切なのである。人生は闘うがゆえに美しい」と。

そう、「人生は闘いだぁぁ!」


古いものがみな無価値に

2014-11-22 08:28:29 | 虚無僧日記

あまりにも、めまぐるしく時代が変わり過ぎて、過去のモノが

全て 無価値になった。

 

「小野竹喬」の立派な掛け軸が、わずか 3,000円。 掛け軸を

飾るような床の間のある家が無くなったからだ。

百科事典もも辞書も 歴史書も全部 要らない。インターネットで

見れる。

必要なモノはネットで カンタンに買える。 店がどんどんつぶれる。

コンビニで、振込みも、現金引き出しもできるから、銀行も要らない。

コンビ二で FAXの送信もできる。

楽譜もプリントアウトできる。これでは 楽器店も要らない。

 

「邦楽も虚無僧」も ここにきて 急に “無用のモノ” になってしまった。

“万策・金策” 尽きて、箏2面、三絃2棹、琵琶、太鼓、木魚などの

楽器類、着物、帯、桐の下駄 などを 売る羽目に。

調達価格は100万円以上はしたのに、全部まとめて 1万円。

それしか価値が無いということか。

ダルマの云う 「無価値、無功徳、無一物」。身に沁みて感じる。

 

今月の家賃が払えないので、ネプチューンの2尺8寸管(F#)、

購入価格35万を 10万で売りたし。どなたか買ってくれませんか。

 


世の中変わった・・・

2014-11-21 21:17:09 | 虚無僧日記

世の中 急変。 過去のものが全く用を為さなくなった。

①「現金、財布」が要らなくなった。買い物も電車に乗るのも

カード。「銀行」も要らない。現金引き出しや送金、振込みなど

コンビ二の方が早く済ませる。

②「名刺」が要らなくなった。メールを交換するか、姓名を

名乗れば、face-book で やりとりできる。そのFBも

スマホで見れる。

③「手紙、葉書、切手」。「年賀状」なんか、まったく無意味。

これでは郵便局の経営も危うくなってきた。

④街中から「時計」が消えた。ケータイで確認できる。

 

その「カード」「キャッシュ」「クォーツ」「ケータイ」「コンピュータ」の

「カキクケコ」を持たない私は、今の世の中で生きていけない?

生きる価値が無い“無用の人” “無能の人” ということか。

 

 


滋賀県にも「山室」

2014-11-21 21:01:22 | わが家のこと

私の母方の姓は「山室」で、どうやら千葉県の「山室」の城主だったようだと

書いたところ、11/9 滋賀県の方から、長浜市と米原市にも「山室」という

地名があり、「山室姓」も複数あるとの情報をいただきました。ありがとう

ございます。

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滋賀県長浜市堀部と言う町には、山室と言う姓の家が複数あります。

又、滋賀県米原には山室と言う所があります。私が聞いた話では、山室の姓は

平家の落武者と記憶しています…もう…三十年以上前に、『山室家』と言う本を

見た記憶があります。岐阜県にも山室と言う姓は多いみたいです。

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千葉の「山室」は、古墳と石室が多くあることから「山の上の室」という地名に

なったものと思われます。その「山室城」の城主「山室氏」は、徳川家康が

関東に入封した際、家康の命令をうけた「保科正光」によって攻められ、

降伏しています。そして、保科正光に従って、信州高遠から山形を経て、

会津に移り住んだのでした。その他、山室一族は数十人もいたようで、

一族離散し、岐阜や滋賀県にも 移り住んだのでしょうかね。

 

全国の「山室」姓の方、先祖のこと判れば教えてください。