鞍馬で天狗に兵法を習ったという牛若丸。
その天狗伝説どおり、鞍馬寺の寺紋は「天狗のうちわ」でした。
ほんとは菊の花を横から見たところをデザインしたものなんだそうですが、どうみても団扇っぽい。
天狗の話は全国にありますが、日本ハ天狗の中でも強大な力を持った大天狗が鞍馬天狗。
八天狗のまとめ役やら天狗の総元締め的存在です。
鞍馬天狗の僧正坊は鞍馬山の尊天(魔王尊)の使者で、護法魔王尊こそ天狗さんの総師であるそうです。
天狗という言葉は、インドの仏典では「流星」をさす言葉として用いられており、それが中国語に訳されたとき「天狗」の字が当てられたといいます。
キルギス語やさらに東方のモンゴル語など中央アジアの言葉で、テングリは「神」「天」という意味らしい。
またキルギスとカザフスタンの国境にテングリ山という山があります。
天山山脈でポベーダ山に次ぐ2番目の高さの山です。
ウイグル語:Khan Tengri、「天の王」を意味するそうだ。
尊天を祀る鞍馬寺は、1949年以降鞍馬弘教総本山です。
以前は天台宗に属し長く青蓮院の支配下にあったのでした。
鞍馬寺は770年に鑑真の高弟鑑禎(がんちょう)が毘沙門天を祀って創建されました。
毘沙門天のお使いであるといわれる神獣が虎。
毘沙門天ご出現が、寅の月・寅の日・寅の刻であったことから、特に鞍馬山では大切にされ、狛犬ではなく虎の阿吽像が左右に設置されているのだそうです。
思託鑑禎(722~809)上人は、鑑真和上とともに753年来日し、鑑真を助け戒律を講じ実践した高弟の一人です。
その弟子の中の一人、安如宝は鑑真の唐招提寺創建に大きな力を発揮しました。
ウズベキスタンのブハラ出身であることは以前の記事でエントリーしています。
2009/4/16
仏教と思いこんでたけれど
もともと唐は漢人と鮮卑系混血人に建国されて以来、唐の時代は西域と繋がりが深い。
鮮卑は北方騎馬民族でトルコ系ともモンゴル系ともいわれています。
シルクロード経由で中国に伝わった仏教は、鮮卑族と関係が深いのでしょう。
安如宝しかり、思託鑑禎はどうなんだろうと調べてみました。
「思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。
741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが、鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)であった。
やがて大安寺で天台学、律蔵、禅を教授し日本人僧に拳杖術を教えたと思われる。
唐招提寺が完成すると師・鑑真とともにそこへ移る。
鑑真が入寂して7年後の770年、思託は鞍馬山に禅庵を結び、鞍馬寺を創建した」
SportsClick「武術の来た道」で見つけました。
牛若丸が学んだ武術は西域系拳法だったのでした。
「牛若丸は7歳のとき鞍馬寺の蓮忍、覚日に預けられ武術に熱中するが、蓮忍、覚日の二人の僧は鞍馬寺が真言宗から天台宗に転宗した後の僧であるから比叡山延暦寺で武術も修業したものと思われる。
思託が僧たちに伝えた武術―それは鞍馬流と呼ばれる―は、伝教大師・最澄を始祖とする比叡山延暦寺の四心多久間流とも合流することになる。
やがてその武術は僧兵から武士へと伝わり、鞍馬山拳法、陰陽流、判官義経流、陰流、揚心古流、鞍馬揚心流、武田流などに変化していった」
日本の歴史を武術という側面からみたもので、天狗伝説にもつながり大変興味深い。
かいつまんで引用させていただきましたが、
武術に興味のおありの方は是非→
こちらから
第1回 哲学者アリストテレスから文武両道を学ぶ
第2回 アレキサンダー大王の伝えた武術練習場
第3回 お釈迦さまは拳闘、相撲の名手!? 仏教と武術の奥深さ
第4回 仏教の中国伝来と武術をもたらした西域僧
第5回 ダルマの入来と禅法 ― 西域武術の中国伝来
第6回 西域から来た僧らの実録-西域僧の技法中国に広がる
第7回 少林寺武術の流れ-三蔵法師の武術が日本へ
第8回 法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術
第9回 最澄と四心多久間流-鑑真と思託と澄水流の交流
最終回 牛若丸の学んだ武術-西域系拳法、日本に広がる
『お釈迦さまは拳闘、相撲の名手!? 仏教と武術の奥深さ』より引用します。
インドに広がった仏教が仏僧によって西域諸国や中国へ伝えられるのは紀元前から1世紀頃である。
異教徒の迫害や盗賊から身を守るため、僧らが棍、杖、拳術を修行するのは当然のことで、その力がなければ諸国を布教・遍歴することはできなかった。
各地の王侯、有力者に仏教という新しい宗教を説くには、時に雨乞いや占いで奇跡を出現し、病気治療で実力を見せつけ、また王候とともに戦場にでて勝たなくてはならなかった。
寺院というものは初めなかったというが、仏塔が崇拝されやがて建物ができ寺院に発展した。
釈迦はアレキサンダーより半世紀ほど昔の人だが、アレキサンダー大王の東征によって西アジア、中央アジア伝えられたギムナジウム(格闘技練習場、講堂、図書室などを備えた総合体育施設)の大学的教育制度が寺院と融合するのに障壁はなかった。
古代インドには武士階級の教育制度があったし、ギムナジウムでの学問と健身、護身訓練の伝統・習慣が、やがて寺院内での修行として定着し残されていったのである。
『ダルマの入来と禅法 ― 西域武術の中国伝来』より引用
拳法の寺として知られる嵩山少林寺の開基者・仏陀禅師はインドの人で諸国をへめぐった後、北魏の孝文帝の庇護により嵩山少林寺を開創(496年)する。
仏陀禅師の高弟・慧光、僧稠も武術をよくしたといわれ、その法系にはインドへ取経の大旅行を敢行したあの玄奘三蔵がおり彼も少林寺で修行したことがある。
仏陀禅師が没し、その10年あまり後にダルマさんの愛称で親しまれているインド僧・達磨が中国にやって来た。
達磨は南インド香至国の王子で、師の般若多羅尊者の言にしたがい、すべての迷える人を救いたいと中国へ向かった。
ルートは海路をマライ半島、ベトナムなどを経て今の広東に上陸した。時に520年という。
この達磨大師はお釈迦さまから数えて28代目といわれる。
『少林寺武術の流れ-三蔵法師の武術が日本へ』より引用
玄奘三蔵が帰国後の高弟に神泰がおり、長安の恵日寺に住した。ここで神泰に学んだのが日本の遣唐留学僧・定恵(じょうえ)である。
定恵は藤原鎌足の長男、藤原不比等の兄。13歳で唐に渡り、仏教を学び、在唐期間は11年におよぶ。
玄奘三蔵の修行の流れからして定恵も武術を身につけて帰国したと思われる。
日本で最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
藤原鎌足は大化の改新の功臣だが、茨城県鹿島神宮内で生まれたといわれ、この中臣氏の家系は北方シャーマン系の卜部氏の流れを組む有力な武術をもつ集団であった。
定恵は帰国後、父・藤原鎌足の供養のため多武峰妙楽寺(後の談山神社=奈良県)を建立。ここで長安で学んだ仏法や拳法を教授した。その拳法の流祖を父・鎌足に仮託したものと思われる。
『法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術』より引用
遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。
この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説があることは前回も述べた。
中略
インドから来た仏陀禅師、達磨大師による禅法と拳法は崇山少林寺に根付き、その法系には仏教典を求めインドへ旅した玄奘三蔵がおり、その流れは日本人留学僧により我が国へ伝えられて来たのであった。
『最澄と四心多久間流-鑑真と思託と澄水流の交流』より引用
達磨禅の法系は達磨―慧可―僧サン―道信―弘忍―神秀―普寂と続き、普寂の師の神秀は身体の大きな人で拳杖術の強さは群を抜いていたという。
普寂の弟子道センはインド僧ボダイセンナらとともに日本に来て、奈良・大安寺に住した。日本人の高弟には行表、善俊、淡海などがいる。華厳学、律蔵、禅法を講義するかたわら少林寺伝の拳杖術も教えたものと思われる。752年の東大寺大仏開眼供養会には咒眼師を努めた。
道センの高弟・行表のもとで学んだのが最澄で、大師は自らを達磨の直系と記している。