秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

古代は淀江のランドマークも今や「上淀廃寺」

2024-12-06 | 古代史のミステリー
天神垣神社からさらに上がると、
15:03 

上淀廃寺跡
上淀の丘に建つ淀江のランドマーク❣️
だったと考えられるらしいです。
古代は日本海側が表玄関。
対馬海流のればちょうどいい交易拠点だったのでしょう。

一世を風靡する大伽藍の立派なお寺だったのに名前がわからん、
なので上淀の廃れた寺!というのも、なんだかねぇ〜

風も冷たくて、時はまさに冬でした。
つわものどもが夢の跡。
すでに1万歩は歩いてるし、さらにアップダウンでヘロヘロ。

7世紀末飛鳥時代に建立され、平安中頃の10世紀末焼失したそう。



この金堂が上淀白鳳の丘展示館で復元されてました。
15:25にやっと館内に入れた😅



復元された如来像と左右に菩薩像。
壁面も出土した壁面断片を参考に綺麗に描かれてました。

展示品の一部ご紹介





立派な松葉蟹フルコースと、
親切な学芸員ガイドさん達に感謝して❣️
早々に記録残します。

2日目はもっと感動したんですよ。
忘れないうちに、早よ書かんと、ね。


上淀廃寺
頂いたパンフとネットで復習(^_^)☆




誰がいつ、何のために建てたの?
古くは縄文〜飛鳥時代まで、淀江は日本海交易の重要な拠として栄えていた。
淀廃寺は、交易で成功した地元の有力者が自分の富や権力を示すため、
飛鳥時代に建てられたと考えられる。
誰だったかはわかっていません…


なぜ上淀の丘に建てられたの?
地図も方位磁針もない時代、「大山と孝霊山の重なるところ」
が船で淀江へ行くための目印だった。
上淀廃寺は、その目印となる山々を背にした上淀の丘に建てられ、
当時周辺にはないような朱塗りの柱や瓦ぶきの屋根が海からでもよく目立ち、
淀江のランドマークとしての役割も担ったことでしょう。





背景だけ描かれた壁画?
彩色仏教壁画で彩られた金堂北側の壁面に対し、
東西の壁画は蓮台と頭光という背景だけが描かれていたことがわかっている。
なぜ、肝心の仏が描かれなかったのか。
説には、この壁画の前には仏像が置かれ、
背景画と組み合わせられていたのではないかと言われる。
この技法は国内では他に見つかっておらず、
上淀廃寺独自の表現あったと考えられている。


他にはない独自の伽藍配置
塔、金堂、講堂など寺院の主要な建物を伽藍と呼び、
の配置には教義や使い方、土地の条件や時代性などに応じたいくつかの様式がある。
上淀廃寺は1つの金堂と、3つの塔の遺構が見つかっていて
この様式は、国内にも日本に仏教を伝えた朝鮮半島にも類例がない。
た、南北に連なる3つの塔のうち、
南側の2つの塔には建物の痕跡があるものの、
北の塔は「心礎」と呼ばれる仏塔の中心の柱を受ける礎石しか見つかっていない。
本当に建っていたかどうかはわかっていません。




コメントを投稿