へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

会話が成り立たない

2009年05月07日 02時28分46秒 | Weblog
昼前のことだが、家の前で親しい友人と花の香りについて話していたのだが、其処へ通りかかった近所の人のおかげで話がぶち壊しになってしまった。
私と友人は、お互いの好みは好みとして受け入れて話をしていたので話が発展していたのだが、通りがかった人は「あの花のどこが好い匂いなのだ」とか、「あれより○○の方がずっと好い匂いだ」など、自分の好みを主張するばかりで、相手の好みを理解しようとしない困った人なのである。
NHKの放送などで時折「意見には個人差があります」などと言う注釈が出ることがあるのだが、近頃は他人の意見を素直に受け入れられない人が多くなっているのではないだろうか?。
自分の意見ばかりを主張していれば「当然の結果」と言うのもおかしいが、相手も対抗して「自分の意見を主張する」と言うことになり、話は平行線をたどり、争いの元になることさえ珍しくない。
一方、相手の話を聞くようにすれば「当然の結果?」として、「相手も自分の話を聞いてくれる」と言うことになるのではないだろうか?。
「話せばわかる」と言う言葉があるが、悲しいかな、相手の話を聞こうとしない人には「話せば話すほど溝が深くなる」と言うことも多々あるので困ってしまうのだが、最近の風潮は少々事情が違うのではないだろうか?。
私が考える大きな原因としては、「デジタル技術の発達」を上げなければいけないと思うのだが・・・・。
デジタル技術の発達により、PC、携帯電話が発達して「メールやブログ」と言う従来にはない機能が発達したのだが、これが「相手の話を聞く」と言う能力を奪ってしまったのではないだろうか?。
私自身もこうしてブログという機能を活用してはいるのだが、常に気持ちの上で不満に感じていることがある。
便利になったことは事実なのだが、その中身は「話は常に一方通行」だと言うことで、リアルタイムの反応どころか「読んで下さっているであろう方の反応もわからない」と言うことが殆どで、「会話にはならない」のである。
このように「情報発信(一種の自己主張)」と言うことは簡単に出来るようになったのであるが、「会話をする(言葉のキャッチボール)」と言う能力は失われてゆくのではないだろうか?。
このことの一つの表れでは無いかと思うのだが、「断定できないような内容の文章の末尾に付くはずの『?マーク(疑問符)』が無い文章」が目に付く一方、相手に問いかけて意見を引き出そうとするような話し方が少なくなっているように感じるのだが・・・・。
私自身は出来る限り「断定的な表現はしない」と言うことを心がけてはいるのだが、如何せん「情報が一方通行のため、自己満足でしかない」と言うのが実情である。
デジタル化社会になり、通信や情報の発信・受信が容易になり、一見すると便利な世の中になってように感じるのだが、その中身は「無機質」なものになってしまったのではないだろうか?。
コメント
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