織田作之助が、小説「夫婦善哉」の中に書いた、鰻の「いづもや」。
たぶん大阪人で知らぬ者はいないほどの名代の看板。
いわずもがなの、まむしの老舗である。
関西圏以外の人は、まむしの名前に眉をひそめるかもしれない。
今さらながらであろうが、まむしというのは「鰻(まん)蒸し」から来ている説。
ご飯の間に鰻を挟むから、「間蒸し」説。いろいろあるぜよ。
江戸の街で芝居勧進元、大久保某が鰻の出前を取るのだが、忙しくて冷めるから、
めしに挟み込んで持って来させた。食べる頃にはご飯の間で丁度よく蒸されて美味だった、と
これも定説というだけ、確信ある訳ではない。
さて、いづもや。
出身は「出雲の国」島根。
そもそも江戸中期、松江は鰻の豊漁に湧き返った。
これに目をつけ、高値で取引されていた大阪へ売り込む者あり。
どの時代にも目先のそろばんの立つヤツぁいる。
安来港から岡山通って播磨灘へ。ここから海路、京大阪を目指した。
これを鰻街道。鯖街道ばかりぢゃないのだ。
食紅を商っていた初代末吉、商売をしにきてこの鰻の魅せられた。
浜名湖の養殖が一般化するまで、鰻というと出雲の天然鰻だった。
明治9年(1876)創業、出雲屋の名前は鰻屋の代名詞となり、独り歩きした。
自称出雲屋も含め、ピーク時は大阪に300軒もの出雲屋があった。
三越少年音楽隊を皮きりに、松坂屋、高島屋などが宣伝用の楽団を持った。
出雲屋も少年音楽隊を持ち、そこで若き日の服部良一少年がサックスを吹いていたのは
有名な話。
都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、
ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のを
フーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」へ春団治の
落語を聞きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。
意識して食べると、ほんとに酒塩がきいている。
たまり醤油と酒、みりん、砂糖などで作るタレは、酒の弱い人なら
一瞬酔いそうな気になるほど、ぷんと酒が香るまったりとした味。
そのタレがまんべんなくご飯にまぶされている。
柳吉でなくとも「う、うまい…」と言いたくなる。
職人はタレをかけて蓋をして、パコパコと振るのである。
これがいかにも大阪風な手荒さで面白い。
オダサク書いた相合橋東詰は遠になく、それを引き継ぐ
千日前の角にあったいづもやが閉めて5,6年にもなるか、
ここに30年いた職人が、船場センタービルに来て始めたのが「船場いづもや」。
だから、本家筋の味を継承していると店員は胸を張る。
住吉公園にも西田辺にもあるが直接的な関係なく、
京都、東京にも同名店あるがちがう系統。
どこぞに「柴藤」はいづもやが出す高級版とあったが、これも言下に否定された。
鰻料理を大衆化させたのは「いづもや」に相違あるまい。
ここは歴史をもう一度ひも解いて、きっちりと整理しておくといいだろう。
こういう大衆路線の歴史は日々の忙しさの中に埋もれ、うやむやになってしまう。
昼定食880円は、二切れのまむし・うまき・漬け物・肝吸い(または赤だし)が付く、お値打ち。
上定食1050円は、鯨のお造りが付く。ゆっくり一杯やるならこれもよし。