朝日記210211 畏友AN氏とのトーク;森 喜朗さんのいわゆる失言についてと今日の絵
私araiのまとめ;
発言の内容の意味を問わず、ルール違反の境界条件を越えて政治問題化する。誰も解決に手を出さない。他所のビッグブラザーの耳に届く用よう騒ぎ立て、ブラザーの不都合さに及ぶと訴える。そして、ブラザーが、うるせー、辞めるんだなの嘯き発言を引き出す。出ると待ってましたばかりに、天の声で決着させる。そのような定番のシナリオです。これは、楽な解決法ですが、ブラザーの方からは、あの餓鬼がという評価です。LGBDTもブラザーの流行くらいで、こちらの頭は空っぽですね。憲法改正問題もおなじカテゴリです。これを書いて、昼に茶の間に入ったら、家内から森さん辞意を表明したわよという報告が入った。腕まくりをして彼への応援弁論を期していたので、いささか失望したことを記すが、思考は活性化していることを記しておきたい。2021/2/11
b以下、本件にかんする意見交流を主として畏敬する友人AN氏との「ときの思考のchronicle memento」として以下掲載する。
腰護漁港
徒然こと 畏友AN氏とのトーク;オリンピックの元締め 森 喜朗さんのいわゆる失言について
AN氏 それほどの大問題かと思う。政治家の評価は「失敗しないが大した成果もない」<「いろいろやらかしても仕事は出来る」だろう。余人を以て代えがたいのは当たり前。この人の政治家としての評価だったら、李登輝元総統の葬儀に行っただけでも百の失言を打ち消すだけの功績がある。「みんな違ってみんないい」ではなかったか。むしろ自分の気に障れば、寄ってたかって黙らせる、排除する、社会的に葬ろうとする風潮の方が気味悪い。いい加減コロナで閉じ込められて、何か日本中が『被災者の全体主義』に陥ってないか。
arai
まことにコロナ全体主義になっています。本音を言ってくれているのだろうと思っています。この世代のひとはすでにしがらみが少なくなっているから、言いにくいことを言ってもらうのは悪いことではない。私の直感としては、彼はあの知事のことをいっているとみています。がんばれといっておきます。
AN氏
https://special.sankei.com/.../article/20210206/0001.html
SPECIAL.SANKEI.COM
【産経抄】2月6日
YY氏
そういえば森さんを引き下ろすネット署名が回ってきたけど、呆れるしかない。あれがアウトなら周りの多くの男性が当てはまりますね。許すわけではないけど驚きはしない。世の中はもっと許し難いことだらけじゃないですか。
AN氏
ホントです。
IA氏
蝿のようにたかり、豚のようにわめく。これだけ素早いのは儲かるからでしょうね。
HY氏
これぞ左翼活動家の総括・糾弾会という感じですね。「差別」とレッテルを貼り、自分達のモラルの優位性を大前提とした上での寄って集っての攻撃は自己批判の上、徹底的に潰すまで止まない。陰惨です。ゾッとします。「女性は」などと一括りに言うのはけしからん、皆怒っているぞ、世論を聞けか。「人民の敵」扱いで排除すること自体が酷い一括りで差別的なのですが。本当に気味が悪い。
元々、森会長を潰し五輪を中止に追い込もうという明確な意図の元に行っていることですね。卑劣さに吐き気を覚えます。
AN氏
もともと「人間の中の良きもの」は、いかに怨嗟に折り合いを付けて許すかを軸に倫理を発展させてきたと思います 。それが寛容というものです。「許さない」「許すな」というのはそうした人間の歴史に弓を引くものです。マスコミというのはどうやら良くない発明物だったようです。
arai
社会道徳ということばを調べると、近代の入り口で、人への同情、思い遣りが表向きから消えて、ひたすら理性のなかに各人が負う倫理性や道徳性を含めて合理主義の肯定であったようです。アダム・スミスの効用主義は、その前提として社会にキリスト教的価値観(倫理観)の存在を前提としています。彼の「道徳感情論」はそのことを執拗に論じて後世への危惧を予見していたことを思い出しました。ジョン・しゅてゅアート・ミルは、すでに主権が政府からメディアに移行していること、つまり愚劣化、衆遇化への危険性をそその危惧論で述べ、結局 国民の教育つまり知的成熟を論じます。ここでの社会道徳は、個人の内面性の倫理については、個人の責任として問題の境界条件の外におきます。つまり宗教のもつ価値は認めたとしても対象のドメインの外とします。かれが社会側に残したのつまり社会道徳はどうやら合理主義でつぎの三つ条件を付します。
次の条件をもつ合理主義とは;1思考と論議において誤謬する生き物としての人間、2弱者への定常的救済、3知者の責任として論議と合意探索へのリーダーシップへの勇気であったようです。紆余曲折はあれ、先進メディアはそのような役割と責任があって、これによって国民からの道徳的な支持とレベルの向上を得てきたといえます。これについては多々弁じられるところがありますが、一番気にかかるところは、自分の意見や主張に対して硬直的であることではないかと思います。経験的には時折接する英国人に他との議論の過程でそれぞれの誤謬点を容認して、合意点への収束プロセスを提案するあの素養をみることがあります。そういう成熟した知性をいまのメディアが落としてしまっている。TVなどの常連は、台本があるから、だれがやっても同じようにみえますが、モーターショーの説明係のように見栄えよいパペット的な状態の人たちです。 いま「説明掛」と書きましたがこれを「説明ガール」と表現したら、もう森さんと同じような集中攻撃のまとになりますね。いまの状態を「コロナ全体主義」と書きましたが、単一規範(教条)の空気は彼の国でのトランプ弾劾世論とくにSNSの偏狭ともいえる(結果的)世論操作にあらわれています。もとに帰りますが、森さんの言の表現としての社会的「空気」は空気として、言の内容として、彼が何を問題をしたのかを、合理的な議論のまな板に載せることは意味あることです。もっとも年寄りは、ときに本質のみを言明するので、誤解をまねきますが、これまでもリーダーとして、いまもリーダーとしてあるひとの心情を語らせてもよいのではないかとおもいます。
AN氏
ありがとうございます。本来リベラルというのはイデオロギーとして内容を持つものではなく、態度の問題であって、日本人はそういうところに憧れたものだったと思います。何だか最近急激に変質してしまいました。やはり冷戦という落とし蓋が取れたことがきっかけだったような感じがします。
森さんの発言は、企業や官庁や自営などでプロフェッショナリズムを体得している女性に向けられたものとしては不適当と思います。が、もっと身近な、例えば私なら美術団体の会議のような場面だと、2時間の会議で30分しゃべってしまうとか、脱線しまくりで何の脈絡かわからないとか、お隣と私語してきゃははと盛り上がってしまうような女性が多いなと思うのは実感です。これはむしろ多くの市井の女性で、高い地位が得られていない、社会参加が進んでいない実例として、別の問題として前景化した方が建設的ではないかと思います。
arai
とはいえ、芸術活動の創作刺激になるドメインであれかしですね。言説といえば、最近こういうのに出会いました。「シャーロックホームズはイングランドに生まれた」と「グラッドストーンはイングランドに生まれた」という二つの意味合いについてです。英国ヴィクトリア時代での二つの存在ですが、後者グラッドストーンは確かに現実の総理として存在した。それではシャーロックホームズは存在したか。
早い話、彼はコナンドリルの創作のなかの人物ですから、現実には存在しなかった、しかし、ひとは彼の存在を否定しない。その世界に生きているとして存在を求めます。あの論理数学者のバートランド・ラッセルはそれを「語られる者は存在する」とし、ただし「成熟した知識」の裏付けという条件のもとて積極的に支持します。「存在」について「われ思うゆえにわれある(存在)」と「どのようにある(存在)とするのか」の有名なふたつの命題です。前者はカントに代表される認識論上の「存在」(;観念)で、後者はハイデガーに一応代表される「実存」とよばれている存在ですね。現実の世界では、前者は国の制度などで構造を考えるときには特に重要です。後者は現実の社会問題を考えるときに重要な視点です。そうですね、巷にはたくさんの小説や映画などが広い意味の文芸がそのどのようにあるかを表現して、その意味でそれらの価値はおおきのであろうと、いま思いました。だからそれに任せておしまいか。あまり小説をよまないのでなんともいえませんが、ものごとの在り様をその本質を意識しての在り様を語るということは、またすこし次元がちがうのかもしれないとも思えます。だんだん自分のいっていることが怪しくなってかきましたが、西山さんが語られるようなもの、つまり言説は社会にとって重要な意味と役割をもっているような気がします。
唐突ですが、Alexi Meinong(1853-1920)というオーストリアの哲学者にいま関心をもっています。Russelに言説の存在性を認めさせたことで興味をもったのでした。 Russelはシャーロックホームズまではうんうんと言ってMeinongを支持していましたが、「四角い丸は存在するか」という命題を持ちこんで、それを考えることは意味ないとして拒否します。Meinongは、「四角い丸」は、現実の存在(subsisit, have being)は否定されるが、「四角い丸は存在するか」という命題は存在(existent)すると反論したのでした。結果は、Russelの存在(real being, susist; exist)とMeinongの存在( objective (aforementioned object from mental act );exisitent)という棲み分けとなります。現実に存在subsistするものを考えることは思考の動機にはなりにくい。つまりグラッドストーンは現実であるがただ存在するというだけでは思考の対象objectにする魅力がとぼしい。すでに建築、土木、機械、化学など工学部門では、考える段階でsubsistしていない対象objectを捉えてそのこのましい性能の実現を考える。そういう存在を人間社会での存在命題となると考えた。工学でのこの成功は、社会での対象にも適用できるという評価と期待がその後にシステム工学・科学を生んだことになります。つまりシミュレーションでありました。
どうも、このシステム工学の対象存在命題は実務的であり、今様には、Michel Foucaultや後期構造主義などでの「虚構」という表現でもてはやされているようで、そう、ことしの「大学入学共通テスト」の国語現代文に「江戸の妖怪革命」(香川雅信)の約束事としてオブジェクト化してしまえばもう怖くないという奇妙な問題がでていました。米国の投資家のソロスは狼がくるよというイソップの言説をつかって富豪になったといいます。三度来るよといっているとほんとに狼がくるという言説でした。だんだん話はあやしくなってきました。トランプ氏のいう「盗まれた選挙」というのもMeinongのいうObjective命題ですね。こういうのはアメリカ人は好きですね。存在の完全性の挑戦でアメリカ国民の強靭性を期待し注目しています。話がながくなりました。西山さんへの応援弁論が変な方に行ってしまいました。そうそう「女性がはいるものごとがなかなか進まない」という言説提案でしたね。とごめんなさい。Thanks.
AN氏
「女に言うのが差別なら、男に言うのだって差別だろう」と俄に炎上してしまった古証文。面白いなぁ。
https://yukawanet.com/archives/jyosei202127.html...
YUKAWANET.COM
なぜ男性はすぐ「長い会議」をしたがるのか?という2014年の記事が時を経て大炎上
arai
https://blog.goo.ne.jp/.../18fe990a0a48d8262e5aac16ea474099
BLOG.GOO.NE.JP
朝日記111018 徒然ごと 「古骨の幻」そして、 いまの「神話」について - Yassie Araiのメッセージ
AN氏
バートランド・ラッセルの「語られる者は存在する」というのはとても示唆的と思います。誰だったかが「すべての話はまた聞きである」と書いていましたが、それはそうでしょう。実際の私は屋内なら半径数メートル、屋外でも精々半径2.3㎞のリアル(飛行機に乗れば視野は大分広がります。だからサン・テグジュペリは飛行機を『世界を発見する装置』と書いたのだろうと思います)しか持ち得ません。にもかかわらず、空間的にも歴史的にも全世界を知っているような気になって尤もらしいことを言っています。だから「すべての知識は引用である」のは、その通りだと思います。サダム・フセインに会ったこともありませんし、ジョージ・ブッシュにも会っていません。それでも何かわかったつもりになっている。そうしてみればグラッドストーンもホームズも他人であることにおいては同じで、むしろシャーロキアンにとってはホームズの方が遙かに存在感があるでしょう。歴史的偉人はグラッドストーンの方で、西洋近代史や政治学や憲政史を学ぶなら避けて通れない巨星で、現代にも影響を与え続けていると思いますが、ただもうあまりに遠い星でもありますので、今現在の話をするならそこまで遡らなくても済むのも事実でしょう。すべての人の頭の中にあることは「選択と編集」されたものでしょう。ただそれをあまりに疑うこともなく野放しにすると「見たものしか信じない。見なかったものは存在しない」「見なかったものでも信じる。見たものでも存在しない」ということになりかねませんので、ラッセルは「『成熟した知識』の裏付けという条件のもとで」と釘を刺しているのだろうと思います。実際最近のマスコミのフェイクニュースや報道しない自由というのは、このラッセルの条件の外側で起こっている事のように、私には思えます。小林秀雄が「通人とは自分の経験しか信じない男のことである」と書いていたと思いますが、似たようで全然違うでしょう。これはずばり『成熟した知識』のことを言っていると思います。
その伝で行くと、文芸というのは一種シミュレーターの様でもあります。同じような話でもモーパッサンとフロベールでは別の天候の空を飛ぶようなものですし、大岡昇平は『レイテ戦記』を「このような全体像を見ることが出来る人間はいないのであって、これは一文士の空想に過ぎない」として、あえて「小説」と呼んでいるのは、大変腑に落ちる話と思います。だから、詰まらない話でも読んで損はないと思っています。なかなかやりませんが。ただ、最近のシミュレーションゲームのように、ルールとシナリオとツールとパーツだけがあって、自分が結論に関与出来、一回一回変わり、デザイナーも想定していなかったようなブレイクスルーが発見されてしまうような環境で、物語を紡ぎながら消費するようになってくると、話はシステム工学(といっても私は殆ど理解していないのですが)に近くなってくる気がします。因みに「球を数学的に裏返す」という難題があるそうで、それを「そんな手があったか」という解き方をしたのは、盲目の数学者だったそうです。だから「四角い円」もあるのかもしれません。
「三回言ったら本当に狼が来る」というのは「三度言ったら冗談ではなくなる」とどこか似ている気がします。それで、というのは一寸長くなりすぎましたのでまた。
「ことしの「大学入学共通テスト」の国語現代文に『江戸の妖怪革命』(香川雅信)の約束事としてオブジェクト化してしまえばもう怖くないという奇妙な問題がでていました」というのは、文脈は知りませんけれども、これだけ読むと仏教的悟りのことを言っているようにも思えます。宗教の特質としては、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は「救済の宗教」、仏教は「悟りの宗教」、神道は「コミュニティーの宗教」と誰かが分類していました。仏教も大乗仏教になると大分「救済の宗教」に傾きます。ともあれ悟りの宗教としての仏教は「全部わかってしまえば何も恐くない」、だから生きている内に悟る(輪廻転生の何周回目ということであっても)べきものというのがもともとの形と思います。私は子供の頃タイにいましたので、割と小乗仏教(今はそう呼んではいけないそうですが)の方がイメージしやすいところがあります。要するに、出家して、戒律を守り、修行して、悟りを開いて、安んじて往生する。ということでしょう。お坊さんが裸足なのは、地面の虫でも誰かが輪廻転生中で修行している姿かも知れないから踏み殺さないようにということだそうです。六道に転生するといっても、それぞれそんなそれしかないようなテーマパークのような所ではないでしょうから、この世の6つのディメンジョンのどこかということなのでしょう。お坊さんは人界、虫は畜生界にいるのだけれども空間は重なるのでしょう。
これが大乗になると阿弥陀様とか救ってくれる仏様が出てきて浄土に連れて行ってくれる、という構造になる。だから「大乗仏教はフィクション」という批判は最初からあり、宗旨に因っても行き先が違う。多分に「言語ゲーム」の世界になっていると思います。誰も帰ってきた人はいないから証明のしようはなく、信じるより他はない。「*死生観 ひろくは 宗教観などは いきつくところ「目的論」的な思考の世界であります。したがって 形而下の学問である科学では、これを対象にはなりえないと理解しています。*つまり 仮説に対して 実証のしようがないからです」。まさにその通りだと思います。それでも、無宗教のお葬式でも、参列者は手を合わせたり十字を切ったりするのは、「絶対の無」というものを想像するのが人間には難しいからだろうと思います。ゴーギャンの「我々は何か どこから来て どこへ行くのか」のように、前と後を考えずにはいられない生き物なのだろうと思います。
私は割と真面目な浄土真宗信者なので、宗教アンチではありません。現にこうしている以上、無から発生して無に返ると考える方が、想像を絶していて実感が伴わないと思います。だったら、過去の人達がここまで精緻に作り上げてくれた話に乗らないという手はない。これから行く世界のガイドブックを拡げて、向こうに行ったら何をしようかと考える方が、「もうお終いだ」と考えるよりよほど楽しいだろうと思います。だから「宗教は阿片だ」という気持ちもわからんではないのですが、わざわざ痛がって死ぬこともないだろうと思います。ここで話は、ラッセルの「語られる者は存在する」に戻ります。
森さんの話から、えらく遠くまで来てしまいました。こういう大脱線をするようだと、男の話もいい加減長いなと思います(笑)。
arai
ありがとうございました。良いお話を頂戴いたしました。長いか短いかは会話する者の主観によるものであります。これは「男の話」でした。ファンタジーな対象話題とシーリアスなそれとがありますが、大体前者のところにいて相当のことをさらっと語られるのがすばらしいです。熟読させていただきます。西山言説、ちょっと楽しみにしております。Thank you again,Nishiyama san.
(河童)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます