<金曜は本の紹介>
「建築家 安藤忠雄(安藤忠雄)」の購入はコチラ
この「建築家 安藤忠雄」という本は、本の題名の通りズバリ安藤忠雄さんの自伝で、とても感銘を受けました。
安藤忠雄さんの略歴は以下の通りです。
1941年大阪生まれ。建築家。世界各国を旅した後、独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。イェール大、コロンビア大、ハーバード大の客員教授を務め、1997年東京大学教授、2003年から名誉教授に。作品に「住吉の長屋」「セビリア万博日本政府館」「光の教会」「大阪府立近つ飛鳥博物館」「淡路夢舞台」「兵庫県立美術館」「フォートワース現代美術館」など多数。1979年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞、2002年に米国建築家協会(AIA)金メダルほか受賞歴多数。
この本では、仕事のやり方から教育の考え方、自分の生い立ち、若い頃の日本一周旅行や世界一周旅行での建築行脚やその感動、今まで手がけた建築(表参道ヒルズ、断崖の建築、海外の博物館、兵庫県立こどもの館、渋谷の卵など)等について書かれています。
特に真摯に建築の仕事に取り組む様子には感銘を受けましたし、学生への教育、海外の異なる世界の空気に身をおくことの大切さには共感しました。
また、人生に「光」を求めるのならまず目の前の苦しい現実という「影」をしっかり見据え、それを乗り越えるべく勇気をもって進むことで、そしてそれに向かって懸命に走っている無我夢中の時間の中にこそ人生の充実があるということにも共感を覚えました。
とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイントなどです。
・私の活動拠点は、大阪・梅田の近くにある、敷地面積30坪の小さなアトリエだ。もとは、私の最初の仕事である小規模住宅(冨島邸)(1973年)だった。それを、のちに施主が諸事情で手放すことになった際、譲り受け、1980年に自分のアトリエにしたのである。以後、増改築を繰り返し、1991年の4度目の改造で完全に取り壊して全体をつくりかえ、現在の地上5階地下2階の姿に落ち着いた。内部は1階から5階まで吹き抜けになっている。ボスである私の席は、吹き抜けの一番底、スタッフの出入りする1階の玄関に面したスペースにある。つまり縦に重なる空間を吹き抜けでつなぎ、その一番下に中枢機能を持ってきたのだが、そうすることで、コンパクトさと同時に、私を核として総勢25名のスタッフが緊張感を持って真剣勝負の場に臨んでいるという強い一体感を出したかったのである。この席からなら大声で叫べば建物内のどこにでも声が届くし、階段をちょっと上れば、デスクで働いている各スタッフの様子も一通りで見て回れる。そして、何といっても玄関ホールに座っているようなものだから、スタッフは建物を出入りする際、必ず私の前を通らねばならない。外部との連絡も、海外とのやりとり以外はEメール禁止、ファックスも禁止、個人用電話禁止とした上で、唯一残された手段である共用の電話5台を私の目の届く範囲にだけおいているから、誰とどんな話をしているのか、トラブルがおきていないかどうかすぐ分かる。管理する側にとっては、このように全てがオープンで、いつでも全体を把握していられるのは便利なのだが、裏を返せばボスもまたスタッフ皆に絶えず見張られているわけで、しんどい空間だなと思うこともある。しかし、そうした壁のない状態にしているからこそ、私とスタッフは常に近い関係を保っていられるし、彼らも互いの状況を確かめあいながら一つの仕事を進めていける。こうした事務所の体制と運営を維持するには、今ぐらいの規模の建物で、今ぐらいの人数が限界だろう。
・私が事務所を持ったのは1969年、28歳のときだ。大阪の阪急梅田駅のすぐ近く、昔ながらの長屋が建ち並ぶ一角にあったビルの一室を借り、今日まで生活と仕事のパートナーである加藤由美子と二人きりの出発だった。最初は仕事は全くといっていいほどなかった。依頼にくる人もなく、国内外のコンペに参加するのが唯一の仕事という状態が続き、毎日事務所の床に寝ころんで、天井を見上げながら本を読んだり、架空のプロジェクトを考えたりして過ごしていた。数年が経過してどん底の状態を脱すると、徐々に仕事も増えていったが、依然としてスタッフは2~3名。ごくごく小規模のままだった。自分なりの組織のあり方が見えてきたのは、ちょうど10年目くらい。スタッフが10人ほどになった頃だ。それは「ゲリラ集団」としての設計事務所という姿勢である。われわれは、一人の指揮官と、その命に従う兵隊からなる「軍隊」ではない。共通の理想をかかげ、信念と責務を持った個人が、我が身を賭して生きる「ゲリラ」の集まりである-小国の自立と人間の自由と平等という理想の実現のために、あくまで個を拠点にしながら、既成の社会と闘う人生を選んだチェ・ゲバラに強い影響を受けていた。
・まず考えたのは、すべての仕事について、全責任を負う担当者を決め、その全過程を、私と担当者との1対1のチームで進めていくというやり方。仕事が5件あれば5人、10件なら10人の担当者がいるという状態だ。そうすればすべての現場に、ボスが直結しているから、中間管理職など一切必要がなくなる。事務所が私の個人事務所である以上、最も重要なのは、私とスタッフとの間の認識にズレがないこと。そのためにはどうやって情報を正確に伝達し共有するかといった、コミュニケーションの問題が鍵だと思っていたから、とにかくすべてを単純明快にしたkたのだ。
・私は一人でかなりの数の仕事に関わることになる。それぞれについて、思いついた時に担当者と、進行状況を確かめ、必要なら修正を加える。そこで、不注意なミスや、考え抜くという姿勢を放棄したような怠慢さが見受けられたり、現場との関係やクライアントとの関係づくりにずさんなところがあったりでもしたら、容赦なく怒鳴りつけてきた。事務所を開設して数年間は、私とスタッフとの年齢差も10歳そこそこだったし、血気盛んな若い時分で、すぐに手も足も出た。ただ、デザインのセンスが悪いといって、責めたことはない。大切なのは、「その建物を使う人間への、気遣いが出来ているか、定められた約束を守り遂行できているか」ということ。問うのは、担当者一人ひとりの「自分がこの仕事をやり遂げるのだ」という自覚である。
・スタッフの数は、徐々に増えてきたが、20年目ぐらいに25名くらいで落ち着いて、今に至っている。これ以上増えると、十分なコミュニケーションがとれない。私の責任を全うできるギリギリの人数である。平均年齢は、30歳くらい。ずっと一緒にやってきたベテランスタッフ数名以外は、大体5年から10年くらいのサイクルで入れ替わっている。新卒で入った者が5、6件のプロジェクトに関わり、一通り設計事務所の仕事の流れを覚えたところでやめて、新しいスタッフが入ってくるというのがパターンである。事務所に入りたいと訪ねてくる学生には、まず互いのことを知る準備期間としてアルバイトにきてもらう。模型の作製や、展覧会などがあれば、その準備作業が彼らの仕事となる。その際、継続的に通ってくれる学生には、なるべく一つの仕事について、機会のある限り、建築が芽生えてから完成までの全過程に参加してもらうようにしている。スタッフには、事務所に来る学生に接する上で、注意すべき点を二つ厳しく言っている。一つは彼らの名前をきちんと「さん」付けで呼んで、目下のものというような横柄な態度をとらないこと。もう一つは、彼らが勉強のために事務所に来ているのだということを肝に銘じて仕事を頼むこと。学生たちには、未来の可能性を伸ばし広げるために、自分のためだけに勉強出来る権利がある。彼らが何かを学びたいと意志を示した時、先に社会に出ている私たちには、その意欲に応え、機会と場所を提供する義務がある。未来を担っていく学生を、社会の財産として守り育てていかないといけない、そう思うのである。
・また、京都や奈良に近い大阪に、わざわざ建築を学びに来るわけだから、アルバイトとは別に「サマースクール」という企画もしている。古都の名建築も実際に勉強してもらおうと、これは、と思う研究対象となるものを何か一つ自分で選んで、大阪滞在中、週末の土日を必ずそこで過ごしてもらうのである。そして、アルバイトが終わるときに、その成果をレポートにまとめてもらう。茶室から社寺建築、書院建築、庭園に至るまで何に通うかは自由。中には玄人好みの難しい建物を対象に選ぶ学生もいるが、どんなところでも1日ぼんやりその空間に身を浸して、スケッチを2、3枚描くのを繰り返せば、何かつかめるものだ。最後にスタッフ全員の前でレポートを発表してもらうのだが、どれもなかなか立派な内容である。現業に追われるスタッフにとっても、フレッシュな学生の考えに触れられるのは、良い刺激になっているようだ。
・何より大切なのは、職業人としての自覚と個人の能力である。的確な状況判断と迅速な行動力、そして不測の事態にも冷静に対処しうる柔軟な頭がなかったら、瞬く間に、チームの結束力は薄れ、信頼関係も失われ、仕事が潰れてしまうことになる。はからずも、本当の意味で、仕事に関わる人間一人ひとりが、自立した「ゲリラ」でないと、成り立たないような状況になっているのである。特に、若いスタッフたちには、積極的に海外のプロジェクトに参加して、国際感覚を現実の仕事の中で身につけてほしいと考えている。そしてプロジェクトの現状を絶えずつかんでいるようにしろ、としつこく言っている。国も文化も違い、思考回路の異なる人間と、つねに変化する状況のなかで渡り合う経験こそが、彼らが自分ひとりでやっていく前に、私の事務所に身をおくことの、最大の意義だと思うからだ。
・私が小学校に入学するとすぐに祖父が他界し、祖母と二人きりの生活になった。祖母は上方の合理的精神と自立心にあふれる明治の女だった。ささやかながら商売を続けていた祖母は、いつも忙しくしていた。実際、子供に構っている余裕などなかったのだろう。覚えている限り、「勉強しろ」「成績はどうだ」などと小言を言われたことはない。逆に家で宿題などもしようものなら「勉強は学校でしろ」と言って怒られたほどだ。それで小中学校の9年間は文字通り、勉強そっちのけで遊び呆けていた。当然。成績はいつも下から数えた方が早かった。
・学校教育には全く無頓着な祖母であったが、日常の、いわゆる”しつけ”については、極端に厳しかった。「約束を守れ、時間を守れ、うそをつくな、言い訳をするな」大阪商人らしく、自由な気風を好んだ祖母は、子供に対しても、自分で考え、決めて、自分の責任で行動する、独立心を求めた。その姿勢は徹底していて、丈夫だけが取り柄だった私が扁桃腺か何かで手術を受けることになった時も、子供の不安そうな様子などお構いなしに、「一人で歩いていっておいで」と、あっさり突き放した。今思えばくだらない話だが、当時は子供心に「自分一人でこの危機を乗り越えるのだ」と悲壮な決意で病院への道を歩いたものだった。
・実家の向かいにあった木工所は私のお気に入りだった。学校から帰るとすぐに、カバンを放り出してそこへ出かけ、毎日のように入り浸った。そして見よう見まねで図面を描き、木を削りだして形にしていく。簡単な木工細工の橋だったり船だったり、そんなモノを実際に次々とつくっていった。木の匂いに包まれてモノをつくっていくのがたまらなく好きだった。
・工業高校に進学して2年生になったとき、17歳でプロボクサーのライセンスを取得した。先に始めたのは双子の弟で、何か新しいことをやるのはいつも弟が先だった。二人は別のジムに所属した。面白半分で始めたボクシングだったが、1ヶ月足らずの練習でプロテストに合格できたということは、まあ向いてはいたのだろう。プロとして4回戦のリングに立って、初めての試合を無我夢中で闘い終えて戻ると、ファイトマネーとして4000円を手渡された。当時の大卒の初任給といえば1万円程度だから、結構な額だ。ともかく、自分の身体で、仕事をして報酬を得たことが無性に嬉しかった。
・私のボクシングの戦績はまずまずだった。順調に6回戦まで進んだ頃、所属するジムに、当時の日本ボクシング界のスター、ファイティング原田が練習に訪れるという事件があった。同世代の花形選手を間近に出来る幸運に、最初は私も単純に喜んでいた。だが、ジムの仲間と一緒に彼のスパーリングを見ているうちに、何か一気に気持ちがさめていくのを感じた。スピード、パワー、心肺機能の強さ、回復力、どれをとっても次元が違う。自分がどんなに努力しようとも、そこまでいくことは絶対にかなわないだろうという厳しい現実を見せつけられたのだ。「ボクシングで生きていけるかもしれない」という私の淡い期待は完全に打ち砕かれ、即座にボクシングはやめた。ボクシングを始めて2年目、ちょうど高校生活を終えようとしていたときだった。短期間ではあったが、若いなりに相当熱をいれてやっていた分、その希望が失われた喪失感は大きかった。しかし、18歳で高校を卒業する身としては、進路は決めねばならない。そこで、自分は何がしたいのか、何が出来るのかと、心の内側を覗き込んだときに、幼い頃から続いていたモノづくりへの興味を見つけた。
・就職をしない私を心配してくれたのだろう、知り合いの一人が、仕事を見つけてきてくれた。15坪ほどの、バーのインテリア設計の仕事だ。図面を描くのは工業高校の実習で慣れていたが、実際の仕事としては当然、全く初めての経験である。建築やインテリアの本と首っ引きで必死に図面を描いた。現場ではひたすら大工さんに頭を下げ、施主をなだめすかして、何とか自分の描いた設計図で完成まで漕ぎ着けた。今思えば冷や汗ものである。しかし仕事を終えて、初めての設計料を得て、自分が新しい道の第一歩を踏み出したことを実感した。
・独学というとさぞかし自由に、のびのびとやってきたのだろうという人もいるが、冗談ではない。真剣に学び、心に疑問が湧いても、同じ立場で語り合える同級生はおらず、導いてくれる先輩も先生もない。どれだけ頑張っても、自分がどれほどの成長をしたのか、一体どれほどのレベルにいるのか、測るすべもない。最も苦しかったのは、何をどのように学ぶか、というところから独りで考えねばならないところだった。まずは通えなかった大学にもぐりこみ、建築学科の授業を無断聴講してみたものの、1~2時間の講義では、とても自分の知りたい答えは見つけられない。そこで、建築系の大学で用いられる教科書を買い集め、これを1年で読破する計画を立てた。アルバイト先でも、昼休みはパンをかじりながら読書に集中、夜も寝る間を惜しんで頁をめくり、半ば無理矢理であったが目標を達成した。正直いって、半分は理解できなかったし、なぜそれが必要なのかすら分からないことも多かったが、大学での建築教育がいかなる体系かはおぼろげながら掴めた。無駄ではなかったと思う。
・ともかく「これは」と思うことには、何でも挑戦してみた。建築、インテリアの通信教育に夜間のデッサン教室。アルバイトでも、生来の短気な性格が災いして、どこも修行というほどには長続きしなかったが、設計事務所にこだわらず、建築周辺の雑多な仕事を手あたり次第に経験していった。
・ル・コルビュジエの作品集に出会ったのは、そんな手探りの独学の日々を続けていた、20歳の時である。大阪、道頓堀にあた古本屋「天牛」で、現代建築の本に度々登場するル・コルビュジエの名を冠した本を見つけた。何気なく手に取ったのだが、頁をパラパラとめくり、すぐに「これだ!」と直感した。写真とスケッチ、ドローイング、仏語の文章が本の判型と同じプロポーションで美しく並べられている様子・・・。しかし、古本とはいえ当時の私には高額であり、すぐに買うこことが出来ない。その日はせめて目立たない場所にと、そっと隠して帰った。以降、近くを通るたび、まだ売れていないかと心配で見に行っては、積み上げられた本の下へと押し込めるという作業を繰り返した。結局、手に入れるまでに1ヶ月近くかかってしまった。やっとの思いで手に入れると、眺めているだけでは飽きたらず、図面やドローイングのトレース(書き写し)を始めた。ほぼ全ての画を覚えてしまうくらい、何度も何度もコンビュジエの建築の線をなぞった。
・気がつけば、食事代を切り詰めてでも洋書、海外雑誌などを買いあさるようになっていた。文字は読めなくても、頁をめくっていれば、新しい時代の風は感じることが出来る。徐々に建築の世界をの広がりを感じてくると、自然と、その空間を直に体験したいと思うようになっていた。まずは22歳(1963年)大学に行っていれば卒業かという時期に、自分なりの卒業旅行として、日本一周の旅に出た。大阪から四国に渡り、そこから九州、広島を巡って北上し、東北、北海道へ。主な目的の一つは、日本近代建築の雄、丹下健三の建築を巡ることであり、その感動は期待以上のものだったが、その一方で、各地に点在する古建築、とりわけ白川郷、飛騨高山といった土着の民家の空間に大いに心惹かれた。人々の生活が空間に結実し、それが自然と一体となって動かしがたい風景を形成している。その生活の用から導かれた造形の豊かさに、新しい時代の建築とは異なる、静かな感動を覚えた。
・1964年、日本で一般の海外渡航が自由化されるとすぐさま、渡欧を決めた。観光用のガイドブックもなく、むろん周囲に海外旅行経験者などがいようはずもない。「もう帰って来られないかもしれない」と、出発の日には家族や友人、近所の人々と水杯を交わした。海外に出ることは、それくらい不安だった。
・横浜港からナホトカ経由でシベリア鉄道に乗り、モスクワに入る。かつて、前川國男がパリのコンビュジエを目指し、旅だったのと同じルートである。モスクワからフィンランド、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ、スペインと巡っていく。最後は南仏マルセイユから貨客船MMラインに乗り、アフリカのケープタウン経由で、マダガスカル、インド、フィリピンに寄って帰国した。所持金60万円、7ヶ月余りの旅程だった。
・最初に足を降ろしたヨーロッパはフィンランド。極北に近く、気候は厳しい。自然環境としては貧しく不毛の土地といってもいい国だ。私が到着した5月はちょうど白夜のときで、沈まない太陽の下、アルヴァ・アアルト、ヘイッキ・シレンといった、北欧の近代建築家の仕事を存分に見て廻った。厳しい自然の中で、徹底して無駄を排しながらも、美しい光と人間生活への配慮に溢れた質素で清潔な建築、心洗われる空間に強い感銘を受けた。「地域によって生活空間は異なる性格を持つ」という当たり前の事実に、あらためて気づかされた。思い返せば、幾多の感動の記憶がよみがえってくる。はるかローマの時代につくられた、パンテオンの劇的な光の空間。廃墟となってなお、西欧建築の原点として立しる、ギリシャ、アクロポリスの丘のパルテノン神殿。各地に点在する20世紀初頭の近代建築の名作の数々と、その近代にあって異形の建築をつくり続けた、バルセロナのアントニオ・ガウディの建築。イタリアではローマからフィレンツェまで、ミケランジェロのすべての建物を絵画、彫刻とあわせて制作年代順に見て廻った。目に映るものすべてが新鮮であり、もっと面白いものはないかと、旅の間中、ひたすら歩き続けた。そして、夢にまで見たル・コルビュジエの建築。ポワッシーの丘のサヴォワ邸をはじめとする一連の住宅作品から、ロンシャンの礼拝堂、ラ・トゥーレットの修道院、マルセイユのユニテ・ダビタシオンに至るまで、見つけられる限りのコルビュジエ建築を訪ね歩いた。パリでは、コルビュジエのアトリエをずいぶんと探したのだが、結局、建築家本人に会いたいとう願いはかなわなかった。私がパリに着く数週間前の1965年8月27日、コルビュジエは他界していた。
・渡欧の決心を告げたとき、祖母は「お金は蓄えるものではない。自分の身体にきちんと生かして使ってこそ価値のあるものだ」と力強い言葉で、気持ちよく送り出してくれた。以後、自分の事務所を開設するまでの4年間、お金が貯まると旅に出て、世界を歩いて廻った。祖母の言葉通り、20代の旅の記憶は、私の人生にとって、かけがえのない財産となった。
・血気盛んな20代で、いつも心の刺激に飢えていた私は、60年代半ば頃から、しばしば東京に出て、当時アヴァンギャルドと呼ばれた若い表現者たちの仕事を熱心に見てまわった。高松次郎、篠原有司男に寺山修司の天井桟敷、唐十郎の紅テント。あるいは横尾忠則、田中一光といった新進のグラフィックデザイナー、写真家の篠山紀信-55年に増沢が新宿につくった風月堂、赤坂のムゲン、ほかにも新宿2丁目のカッサドール、乃木坂のジャドなどが、そうした人たちの溜まり場になっていた。カッサドールとジャドの内装を手がけた倉俣史朗と知り合ったのもこの時期だ。
・表参道ヒルズでは、4年余りの話し合いの時間を経て、地権者の方々が最後には「安藤さんに任せる」と言ってくれるようになったのは、一つには、一貫して同じ主張を続けた頑固さが、逆に信頼にもつながったのだろう。そしてもう一つ、寄せられた意見に対しては、応じるか否かは別に、必ず答えるようにしたからだと私自身は思っている。
・工程どおり仕事を進めていく若い現場監督と付き合ううちに、徐々に不安は薄れていった。若く経験が少ない分、彼らは、各工程に入るまでに入念に研究し、周到に準備をする。中途半端な経験によりかかって仕事をする下手なベテラン監督より、よほど誠実で頼もしい。工事が終わるまで、毎日が緊張の連続だったが、工事は問題もなく、予定通りにきっちり仕上がった。今では、若いチームで臨んだことが、逆に成功の鍵となったのではないかと思っている。
・20代後半より、何の経験もない私に、人生最大の買い物である住宅を任せてくれた同世代のクライアント達。それぞれの地域ぐるみで私を応援してくれた、神戸の北野町や大阪のミナミの商業建築のクライアント達。そして、実績や経歴ではなく、ただ思想に共感できるものがあるという理由で、私という人間を信頼して、大きな仕事を任せてくれた関西政財界のリーダー達。彼らは皆、大阪人ならではの自由な心で私を受け止め、チャンスをくれた。関西という風土でなければ、いくら頑張ったとしても、今日まで建築活動を続けていることは出来なかっただろう。偉大な先輩たちにかわいがっていただき、ここまで引き上げてもらった。私は大阪に育てられた建築家である。今度は私が、大恩ある大阪のために尽くす番だと、今は考えている。
・ヨーロッパ、特にイタリアでの仕事では、歴史都市らしく、日本と比して、開発に関わる法手続きに驚くほどの時間がかかる。<FABRICA>など、アイディアを出してから完成まで、結局10年以上の時間を要した。現地の職人達の仕事に向かう姿勢も、文字通りの職人気質で、一旦仕事を始めると、工期などおかまいなし、自分が納得できるまで、手を止めようとしない。それを頼もしく思う反面、スケジュールが読めないという怖さが最後まであった。逆に中国では、発展途上の国家ゆえの凄まじすぎる建設のスピードに困惑する。万里の長城をつくった文化の国だけあって、大陸的というか、とにかく何でもスケールが大きい。突然、日本では考えられないような規模の仕事の依頼を受けたと思ったら、契約もあやふやなうちにスタート。工事が始まったら、”もう止められない”と言わんばかりの勢いで、うかうかしていると知らない間に工事が進んでしまう。現場に先回りして、問題を発見・解決するのに精一杯で、息をつく間もない。裁判社会がそのまま反映されたアメリカでの仕事も驚きだった。とにかく契約の度に弁護士が登場し、簡単に済む話を変に複雑にして、プロジェクトの進行を結果的に遅らせることにあんる。民主国家らしく、物事を一つ決めるごとに関係者を集めての会議を開きたがるのにも閉口した。
・私が言いたいのは、他国での建築の現場を体験することによって、自国にいるとつい見過ごしてしまう、建築をその背後で成り立たせている社会の仕組みのようなものを、もっと相対的に見られるようになるということだ。建築家という職業の面白さは、一つの建物の設計を通じて、芸術や技術とともに、地域の歴史や文化、社会制度の問題と、いろいろなことを考え、いろいろな価値観に出会えることにある。その意味で、異なる世界の空気に身を置き、自身の建築を考えることが出来る海外の仕事は、絶好の”勉強”の機会だ。異国の文化を精一杯感じ取り、その場所にしかない建築に向かっていく。そうして新しい建築の可能性を探しているのである。
・2008年6月、東京メトロ副都心線が東急線に先行して開業すると、渋谷という場所柄、多くのメディアがその建築をニュースに取り上げた。面白かったのは、その多くが”卵”の造形的特徴以上に、自然換気の仕組みに反応を示していたところだ。「機械に頼らない地下駅の換気システム」、「環境負荷を軽減する地下鉄の風」・・・・・20年前ならば、一般にこんな形で建築がアピールされることはなかったろう。毎日数十万人の人間が往来する、渋谷の新たな玄関口の誕生が、”環境”の文脈で語られる。それほどに、人々の環境に対する危機意識は高まっているということだ。
・阪神大震災の後、数ヶ月の間は、事務所の仕事を一旦全て中断して、時に一人で、時に事務所のスタッフと共に、被災地を歩いてまわった。被災地につくってきた建物の被害状況を一軒一軒自分たちの目で確かめていくのと、何より、あの風景の凄惨さを、深く心に焼き付けておきたいと思ったからだ。復興には10年以上かかるだろう。そのエネルギーを自分自身、持続させるためには、この悲惨な現実をしっかり見据えておかねばならない-。地震で傷ついた神戸の街のために何か出来ないか。考える中で、依頼もないまま、復興ハウジングプロジェクトの構想を始めた。同時に、亡くなった人々への鎮魂の思いを込め、白い花を咲かせるハクモクレン、コブシ、ハナミズキの樹を住民自身の手で被災地に植えていく<ひょうごグリーンネットワーク>運動を始めた。復興を急ぐ余りに、人間の気持ちを置き去りにしたような都市再建は行われてはならない-10年後の神戸のためにと、必死で走った。
・建築に限らず、日本文化の独自性を探っていくと、結局最後に行き着くのは、四方を海に囲まれた島国の豊かな自然という地点である。温和な気候のもとに広がる、山川い沿った穏やかな地形を、春の桜、秋の紅葉、夏の深緑、冬の白雪と、豊かな四季の風景が覆う。外国の脅威を感じることなく、岩山や砂漠のよいな人間を威圧する厳しい自然もない-この小規模で変化に富んだ自然環境が、日本人の自然に対する感覚を鋭敏にし、20世紀初頭に日本を訪ねたフランスの詩人ポール・クローデルをしt、”世界一美しい国”と言wしめたほどに美しい、独自の生活文化を育んだ。特筆すべきは、そうした感性が、近世に、広く大衆に浸透したことである。浮世絵、歌舞伎といった伝統芸術が、人々に身近な存在としてあった日本は、当時の国際世界において、異例の民度の高さであった。
・独学で建築家になったという私の経歴を聞いて、華やかなサクセスストーリーを期待する人がいるが、それは全くの誤解である。閉鎖的、保守的な日本の社会の中で、何の後ろ盾もなく、独り建築家を目指したのだから、順風満帆に事が運ぶわけはない。とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった。それでも残りのわずkな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩きだし-そうして、小さな希望の光をつないで、必死に生きてきた人生だった。いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた。
・人生に”光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という”影”をしっかり見据え、それを乗り越えるべく、勇気をもって進んでいくことだ。情報化が進み、高度に管理された現代の社会状況の中で、人々は、「絶えず光の当たる場所にいなければならない」という強迫観念に縛られているように見える。大人の身勝手のせいで、幼い頃から、物事の影の部分には目を瞑り、光ばかりを見るように教えられてきた子供たちは、外の現実に触れ、影に入ったと感じた途端、すべてをあきらめ、投げ出してしまう。そんな心の弱い子供たちの悲惨な状況を伝えるニュースが、近頃はとみに目立つ。何を人生の幸福と考えるか、考えは人それぞれでいいだろう。私は、人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う。
<目次>
序章 ゲリラの活動拠点
第1章 建築家を志すまで
第2章 旅/独学で学ぶ
第3章 建築の原点、住まい
第4章 都市に挑む建築
第5章 なぜコンクリートか
第6章 断崖の建築、限界への挑戦
第7章 継続の力、建築を育てる
第8章 大阪に育てられた建築家
第9章 グローバリズムの時代に
第10章 子供のための建築
第11章 環境の世紀に向かって
第12章 日本人のスピリット
終章 光と影
面白かった本まとめ(2011年下半期)
<今日の独り言>
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この本では、仕事のやり方から教育の考え方、自分の生い立ち、若い頃の日本一周旅行や世界一周旅行での建築行脚やその感動、今まで手がけた建築(表参道ヒルズ、断崖の建築、海外の博物館、兵庫県立こどもの館、渋谷の卵など)等について書かれています。
特に真摯に建築の仕事に取り組む様子には感銘を受けましたし、学生への教育、海外の異なる世界の空気に身をおくことの大切さには共感しました。
また、人生に「光」を求めるのならまず目の前の苦しい現実という「影」をしっかり見据え、それを乗り越えるべく勇気をもって進むことで、そしてそれに向かって懸命に走っている無我夢中の時間の中にこそ人生の充実があるということにも共感を覚えました。
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・私の活動拠点は、大阪・梅田の近くにある、敷地面積30坪の小さなアトリエだ。もとは、私の最初の仕事である小規模住宅(冨島邸)(1973年)だった。それを、のちに施主が諸事情で手放すことになった際、譲り受け、1980年に自分のアトリエにしたのである。以後、増改築を繰り返し、1991年の4度目の改造で完全に取り壊して全体をつくりかえ、現在の地上5階地下2階の姿に落ち着いた。内部は1階から5階まで吹き抜けになっている。ボスである私の席は、吹き抜けの一番底、スタッフの出入りする1階の玄関に面したスペースにある。つまり縦に重なる空間を吹き抜けでつなぎ、その一番下に中枢機能を持ってきたのだが、そうすることで、コンパクトさと同時に、私を核として総勢25名のスタッフが緊張感を持って真剣勝負の場に臨んでいるという強い一体感を出したかったのである。この席からなら大声で叫べば建物内のどこにでも声が届くし、階段をちょっと上れば、デスクで働いている各スタッフの様子も一通りで見て回れる。そして、何といっても玄関ホールに座っているようなものだから、スタッフは建物を出入りする際、必ず私の前を通らねばならない。外部との連絡も、海外とのやりとり以外はEメール禁止、ファックスも禁止、個人用電話禁止とした上で、唯一残された手段である共用の電話5台を私の目の届く範囲にだけおいているから、誰とどんな話をしているのか、トラブルがおきていないかどうかすぐ分かる。管理する側にとっては、このように全てがオープンで、いつでも全体を把握していられるのは便利なのだが、裏を返せばボスもまたスタッフ皆に絶えず見張られているわけで、しんどい空間だなと思うこともある。しかし、そうした壁のない状態にしているからこそ、私とスタッフは常に近い関係を保っていられるし、彼らも互いの状況を確かめあいながら一つの仕事を進めていける。こうした事務所の体制と運営を維持するには、今ぐらいの規模の建物で、今ぐらいの人数が限界だろう。
・私が事務所を持ったのは1969年、28歳のときだ。大阪の阪急梅田駅のすぐ近く、昔ながらの長屋が建ち並ぶ一角にあったビルの一室を借り、今日まで生活と仕事のパートナーである加藤由美子と二人きりの出発だった。最初は仕事は全くといっていいほどなかった。依頼にくる人もなく、国内外のコンペに参加するのが唯一の仕事という状態が続き、毎日事務所の床に寝ころんで、天井を見上げながら本を読んだり、架空のプロジェクトを考えたりして過ごしていた。数年が経過してどん底の状態を脱すると、徐々に仕事も増えていったが、依然としてスタッフは2~3名。ごくごく小規模のままだった。自分なりの組織のあり方が見えてきたのは、ちょうど10年目くらい。スタッフが10人ほどになった頃だ。それは「ゲリラ集団」としての設計事務所という姿勢である。われわれは、一人の指揮官と、その命に従う兵隊からなる「軍隊」ではない。共通の理想をかかげ、信念と責務を持った個人が、我が身を賭して生きる「ゲリラ」の集まりである-小国の自立と人間の自由と平等という理想の実現のために、あくまで個を拠点にしながら、既成の社会と闘う人生を選んだチェ・ゲバラに強い影響を受けていた。
・まず考えたのは、すべての仕事について、全責任を負う担当者を決め、その全過程を、私と担当者との1対1のチームで進めていくというやり方。仕事が5件あれば5人、10件なら10人の担当者がいるという状態だ。そうすればすべての現場に、ボスが直結しているから、中間管理職など一切必要がなくなる。事務所が私の個人事務所である以上、最も重要なのは、私とスタッフとの間の認識にズレがないこと。そのためにはどうやって情報を正確に伝達し共有するかといった、コミュニケーションの問題が鍵だと思っていたから、とにかくすべてを単純明快にしたkたのだ。
・私は一人でかなりの数の仕事に関わることになる。それぞれについて、思いついた時に担当者と、進行状況を確かめ、必要なら修正を加える。そこで、不注意なミスや、考え抜くという姿勢を放棄したような怠慢さが見受けられたり、現場との関係やクライアントとの関係づくりにずさんなところがあったりでもしたら、容赦なく怒鳴りつけてきた。事務所を開設して数年間は、私とスタッフとの年齢差も10歳そこそこだったし、血気盛んな若い時分で、すぐに手も足も出た。ただ、デザインのセンスが悪いといって、責めたことはない。大切なのは、「その建物を使う人間への、気遣いが出来ているか、定められた約束を守り遂行できているか」ということ。問うのは、担当者一人ひとりの「自分がこの仕事をやり遂げるのだ」という自覚である。
・スタッフの数は、徐々に増えてきたが、20年目ぐらいに25名くらいで落ち着いて、今に至っている。これ以上増えると、十分なコミュニケーションがとれない。私の責任を全うできるギリギリの人数である。平均年齢は、30歳くらい。ずっと一緒にやってきたベテランスタッフ数名以外は、大体5年から10年くらいのサイクルで入れ替わっている。新卒で入った者が5、6件のプロジェクトに関わり、一通り設計事務所の仕事の流れを覚えたところでやめて、新しいスタッフが入ってくるというのがパターンである。事務所に入りたいと訪ねてくる学生には、まず互いのことを知る準備期間としてアルバイトにきてもらう。模型の作製や、展覧会などがあれば、その準備作業が彼らの仕事となる。その際、継続的に通ってくれる学生には、なるべく一つの仕事について、機会のある限り、建築が芽生えてから完成までの全過程に参加してもらうようにしている。スタッフには、事務所に来る学生に接する上で、注意すべき点を二つ厳しく言っている。一つは彼らの名前をきちんと「さん」付けで呼んで、目下のものというような横柄な態度をとらないこと。もう一つは、彼らが勉強のために事務所に来ているのだということを肝に銘じて仕事を頼むこと。学生たちには、未来の可能性を伸ばし広げるために、自分のためだけに勉強出来る権利がある。彼らが何かを学びたいと意志を示した時、先に社会に出ている私たちには、その意欲に応え、機会と場所を提供する義務がある。未来を担っていく学生を、社会の財産として守り育てていかないといけない、そう思うのである。
・また、京都や奈良に近い大阪に、わざわざ建築を学びに来るわけだから、アルバイトとは別に「サマースクール」という企画もしている。古都の名建築も実際に勉強してもらおうと、これは、と思う研究対象となるものを何か一つ自分で選んで、大阪滞在中、週末の土日を必ずそこで過ごしてもらうのである。そして、アルバイトが終わるときに、その成果をレポートにまとめてもらう。茶室から社寺建築、書院建築、庭園に至るまで何に通うかは自由。中には玄人好みの難しい建物を対象に選ぶ学生もいるが、どんなところでも1日ぼんやりその空間に身を浸して、スケッチを2、3枚描くのを繰り返せば、何かつかめるものだ。最後にスタッフ全員の前でレポートを発表してもらうのだが、どれもなかなか立派な内容である。現業に追われるスタッフにとっても、フレッシュな学生の考えに触れられるのは、良い刺激になっているようだ。
・何より大切なのは、職業人としての自覚と個人の能力である。的確な状況判断と迅速な行動力、そして不測の事態にも冷静に対処しうる柔軟な頭がなかったら、瞬く間に、チームの結束力は薄れ、信頼関係も失われ、仕事が潰れてしまうことになる。はからずも、本当の意味で、仕事に関わる人間一人ひとりが、自立した「ゲリラ」でないと、成り立たないような状況になっているのである。特に、若いスタッフたちには、積極的に海外のプロジェクトに参加して、国際感覚を現実の仕事の中で身につけてほしいと考えている。そしてプロジェクトの現状を絶えずつかんでいるようにしろ、としつこく言っている。国も文化も違い、思考回路の異なる人間と、つねに変化する状況のなかで渡り合う経験こそが、彼らが自分ひとりでやっていく前に、私の事務所に身をおくことの、最大の意義だと思うからだ。
・私が小学校に入学するとすぐに祖父が他界し、祖母と二人きりの生活になった。祖母は上方の合理的精神と自立心にあふれる明治の女だった。ささやかながら商売を続けていた祖母は、いつも忙しくしていた。実際、子供に構っている余裕などなかったのだろう。覚えている限り、「勉強しろ」「成績はどうだ」などと小言を言われたことはない。逆に家で宿題などもしようものなら「勉強は学校でしろ」と言って怒られたほどだ。それで小中学校の9年間は文字通り、勉強そっちのけで遊び呆けていた。当然。成績はいつも下から数えた方が早かった。
・学校教育には全く無頓着な祖母であったが、日常の、いわゆる”しつけ”については、極端に厳しかった。「約束を守れ、時間を守れ、うそをつくな、言い訳をするな」大阪商人らしく、自由な気風を好んだ祖母は、子供に対しても、自分で考え、決めて、自分の責任で行動する、独立心を求めた。その姿勢は徹底していて、丈夫だけが取り柄だった私が扁桃腺か何かで手術を受けることになった時も、子供の不安そうな様子などお構いなしに、「一人で歩いていっておいで」と、あっさり突き放した。今思えばくだらない話だが、当時は子供心に「自分一人でこの危機を乗り越えるのだ」と悲壮な決意で病院への道を歩いたものだった。
・実家の向かいにあった木工所は私のお気に入りだった。学校から帰るとすぐに、カバンを放り出してそこへ出かけ、毎日のように入り浸った。そして見よう見まねで図面を描き、木を削りだして形にしていく。簡単な木工細工の橋だったり船だったり、そんなモノを実際に次々とつくっていった。木の匂いに包まれてモノをつくっていくのがたまらなく好きだった。
・工業高校に進学して2年生になったとき、17歳でプロボクサーのライセンスを取得した。先に始めたのは双子の弟で、何か新しいことをやるのはいつも弟が先だった。二人は別のジムに所属した。面白半分で始めたボクシングだったが、1ヶ月足らずの練習でプロテストに合格できたということは、まあ向いてはいたのだろう。プロとして4回戦のリングに立って、初めての試合を無我夢中で闘い終えて戻ると、ファイトマネーとして4000円を手渡された。当時の大卒の初任給といえば1万円程度だから、結構な額だ。ともかく、自分の身体で、仕事をして報酬を得たことが無性に嬉しかった。
・私のボクシングの戦績はまずまずだった。順調に6回戦まで進んだ頃、所属するジムに、当時の日本ボクシング界のスター、ファイティング原田が練習に訪れるという事件があった。同世代の花形選手を間近に出来る幸運に、最初は私も単純に喜んでいた。だが、ジムの仲間と一緒に彼のスパーリングを見ているうちに、何か一気に気持ちがさめていくのを感じた。スピード、パワー、心肺機能の強さ、回復力、どれをとっても次元が違う。自分がどんなに努力しようとも、そこまでいくことは絶対にかなわないだろうという厳しい現実を見せつけられたのだ。「ボクシングで生きていけるかもしれない」という私の淡い期待は完全に打ち砕かれ、即座にボクシングはやめた。ボクシングを始めて2年目、ちょうど高校生活を終えようとしていたときだった。短期間ではあったが、若いなりに相当熱をいれてやっていた分、その希望が失われた喪失感は大きかった。しかし、18歳で高校を卒業する身としては、進路は決めねばならない。そこで、自分は何がしたいのか、何が出来るのかと、心の内側を覗き込んだときに、幼い頃から続いていたモノづくりへの興味を見つけた。
・就職をしない私を心配してくれたのだろう、知り合いの一人が、仕事を見つけてきてくれた。15坪ほどの、バーのインテリア設計の仕事だ。図面を描くのは工業高校の実習で慣れていたが、実際の仕事としては当然、全く初めての経験である。建築やインテリアの本と首っ引きで必死に図面を描いた。現場ではひたすら大工さんに頭を下げ、施主をなだめすかして、何とか自分の描いた設計図で完成まで漕ぎ着けた。今思えば冷や汗ものである。しかし仕事を終えて、初めての設計料を得て、自分が新しい道の第一歩を踏み出したことを実感した。
・独学というとさぞかし自由に、のびのびとやってきたのだろうという人もいるが、冗談ではない。真剣に学び、心に疑問が湧いても、同じ立場で語り合える同級生はおらず、導いてくれる先輩も先生もない。どれだけ頑張っても、自分がどれほどの成長をしたのか、一体どれほどのレベルにいるのか、測るすべもない。最も苦しかったのは、何をどのように学ぶか、というところから独りで考えねばならないところだった。まずは通えなかった大学にもぐりこみ、建築学科の授業を無断聴講してみたものの、1~2時間の講義では、とても自分の知りたい答えは見つけられない。そこで、建築系の大学で用いられる教科書を買い集め、これを1年で読破する計画を立てた。アルバイト先でも、昼休みはパンをかじりながら読書に集中、夜も寝る間を惜しんで頁をめくり、半ば無理矢理であったが目標を達成した。正直いって、半分は理解できなかったし、なぜそれが必要なのかすら分からないことも多かったが、大学での建築教育がいかなる体系かはおぼろげながら掴めた。無駄ではなかったと思う。
・ともかく「これは」と思うことには、何でも挑戦してみた。建築、インテリアの通信教育に夜間のデッサン教室。アルバイトでも、生来の短気な性格が災いして、どこも修行というほどには長続きしなかったが、設計事務所にこだわらず、建築周辺の雑多な仕事を手あたり次第に経験していった。
・ル・コルビュジエの作品集に出会ったのは、そんな手探りの独学の日々を続けていた、20歳の時である。大阪、道頓堀にあた古本屋「天牛」で、現代建築の本に度々登場するル・コルビュジエの名を冠した本を見つけた。何気なく手に取ったのだが、頁をパラパラとめくり、すぐに「これだ!」と直感した。写真とスケッチ、ドローイング、仏語の文章が本の判型と同じプロポーションで美しく並べられている様子・・・。しかし、古本とはいえ当時の私には高額であり、すぐに買うこことが出来ない。その日はせめて目立たない場所にと、そっと隠して帰った。以降、近くを通るたび、まだ売れていないかと心配で見に行っては、積み上げられた本の下へと押し込めるという作業を繰り返した。結局、手に入れるまでに1ヶ月近くかかってしまった。やっとの思いで手に入れると、眺めているだけでは飽きたらず、図面やドローイングのトレース(書き写し)を始めた。ほぼ全ての画を覚えてしまうくらい、何度も何度もコンビュジエの建築の線をなぞった。
・気がつけば、食事代を切り詰めてでも洋書、海外雑誌などを買いあさるようになっていた。文字は読めなくても、頁をめくっていれば、新しい時代の風は感じることが出来る。徐々に建築の世界をの広がりを感じてくると、自然と、その空間を直に体験したいと思うようになっていた。まずは22歳(1963年)大学に行っていれば卒業かという時期に、自分なりの卒業旅行として、日本一周の旅に出た。大阪から四国に渡り、そこから九州、広島を巡って北上し、東北、北海道へ。主な目的の一つは、日本近代建築の雄、丹下健三の建築を巡ることであり、その感動は期待以上のものだったが、その一方で、各地に点在する古建築、とりわけ白川郷、飛騨高山といった土着の民家の空間に大いに心惹かれた。人々の生活が空間に結実し、それが自然と一体となって動かしがたい風景を形成している。その生活の用から導かれた造形の豊かさに、新しい時代の建築とは異なる、静かな感動を覚えた。
・1964年、日本で一般の海外渡航が自由化されるとすぐさま、渡欧を決めた。観光用のガイドブックもなく、むろん周囲に海外旅行経験者などがいようはずもない。「もう帰って来られないかもしれない」と、出発の日には家族や友人、近所の人々と水杯を交わした。海外に出ることは、それくらい不安だった。
・横浜港からナホトカ経由でシベリア鉄道に乗り、モスクワに入る。かつて、前川國男がパリのコンビュジエを目指し、旅だったのと同じルートである。モスクワからフィンランド、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ、スペインと巡っていく。最後は南仏マルセイユから貨客船MMラインに乗り、アフリカのケープタウン経由で、マダガスカル、インド、フィリピンに寄って帰国した。所持金60万円、7ヶ月余りの旅程だった。
・最初に足を降ろしたヨーロッパはフィンランド。極北に近く、気候は厳しい。自然環境としては貧しく不毛の土地といってもいい国だ。私が到着した5月はちょうど白夜のときで、沈まない太陽の下、アルヴァ・アアルト、ヘイッキ・シレンといった、北欧の近代建築家の仕事を存分に見て廻った。厳しい自然の中で、徹底して無駄を排しながらも、美しい光と人間生活への配慮に溢れた質素で清潔な建築、心洗われる空間に強い感銘を受けた。「地域によって生活空間は異なる性格を持つ」という当たり前の事実に、あらためて気づかされた。思い返せば、幾多の感動の記憶がよみがえってくる。はるかローマの時代につくられた、パンテオンの劇的な光の空間。廃墟となってなお、西欧建築の原点として立しる、ギリシャ、アクロポリスの丘のパルテノン神殿。各地に点在する20世紀初頭の近代建築の名作の数々と、その近代にあって異形の建築をつくり続けた、バルセロナのアントニオ・ガウディの建築。イタリアではローマからフィレンツェまで、ミケランジェロのすべての建物を絵画、彫刻とあわせて制作年代順に見て廻った。目に映るものすべてが新鮮であり、もっと面白いものはないかと、旅の間中、ひたすら歩き続けた。そして、夢にまで見たル・コルビュジエの建築。ポワッシーの丘のサヴォワ邸をはじめとする一連の住宅作品から、ロンシャンの礼拝堂、ラ・トゥーレットの修道院、マルセイユのユニテ・ダビタシオンに至るまで、見つけられる限りのコルビュジエ建築を訪ね歩いた。パリでは、コルビュジエのアトリエをずいぶんと探したのだが、結局、建築家本人に会いたいとう願いはかなわなかった。私がパリに着く数週間前の1965年8月27日、コルビュジエは他界していた。
・渡欧の決心を告げたとき、祖母は「お金は蓄えるものではない。自分の身体にきちんと生かして使ってこそ価値のあるものだ」と力強い言葉で、気持ちよく送り出してくれた。以後、自分の事務所を開設するまでの4年間、お金が貯まると旅に出て、世界を歩いて廻った。祖母の言葉通り、20代の旅の記憶は、私の人生にとって、かけがえのない財産となった。
・血気盛んな20代で、いつも心の刺激に飢えていた私は、60年代半ば頃から、しばしば東京に出て、当時アヴァンギャルドと呼ばれた若い表現者たちの仕事を熱心に見てまわった。高松次郎、篠原有司男に寺山修司の天井桟敷、唐十郎の紅テント。あるいは横尾忠則、田中一光といった新進のグラフィックデザイナー、写真家の篠山紀信-55年に増沢が新宿につくった風月堂、赤坂のムゲン、ほかにも新宿2丁目のカッサドール、乃木坂のジャドなどが、そうした人たちの溜まり場になっていた。カッサドールとジャドの内装を手がけた倉俣史朗と知り合ったのもこの時期だ。
・表参道ヒルズでは、4年余りの話し合いの時間を経て、地権者の方々が最後には「安藤さんに任せる」と言ってくれるようになったのは、一つには、一貫して同じ主張を続けた頑固さが、逆に信頼にもつながったのだろう。そしてもう一つ、寄せられた意見に対しては、応じるか否かは別に、必ず答えるようにしたからだと私自身は思っている。
・工程どおり仕事を進めていく若い現場監督と付き合ううちに、徐々に不安は薄れていった。若く経験が少ない分、彼らは、各工程に入るまでに入念に研究し、周到に準備をする。中途半端な経験によりかかって仕事をする下手なベテラン監督より、よほど誠実で頼もしい。工事が終わるまで、毎日が緊張の連続だったが、工事は問題もなく、予定通りにきっちり仕上がった。今では、若いチームで臨んだことが、逆に成功の鍵となったのではないかと思っている。
・20代後半より、何の経験もない私に、人生最大の買い物である住宅を任せてくれた同世代のクライアント達。それぞれの地域ぐるみで私を応援してくれた、神戸の北野町や大阪のミナミの商業建築のクライアント達。そして、実績や経歴ではなく、ただ思想に共感できるものがあるという理由で、私という人間を信頼して、大きな仕事を任せてくれた関西政財界のリーダー達。彼らは皆、大阪人ならではの自由な心で私を受け止め、チャンスをくれた。関西という風土でなければ、いくら頑張ったとしても、今日まで建築活動を続けていることは出来なかっただろう。偉大な先輩たちにかわいがっていただき、ここまで引き上げてもらった。私は大阪に育てられた建築家である。今度は私が、大恩ある大阪のために尽くす番だと、今は考えている。
・ヨーロッパ、特にイタリアでの仕事では、歴史都市らしく、日本と比して、開発に関わる法手続きに驚くほどの時間がかかる。<FABRICA>など、アイディアを出してから完成まで、結局10年以上の時間を要した。現地の職人達の仕事に向かう姿勢も、文字通りの職人気質で、一旦仕事を始めると、工期などおかまいなし、自分が納得できるまで、手を止めようとしない。それを頼もしく思う反面、スケジュールが読めないという怖さが最後まであった。逆に中国では、発展途上の国家ゆえの凄まじすぎる建設のスピードに困惑する。万里の長城をつくった文化の国だけあって、大陸的というか、とにかく何でもスケールが大きい。突然、日本では考えられないような規模の仕事の依頼を受けたと思ったら、契約もあやふやなうちにスタート。工事が始まったら、”もう止められない”と言わんばかりの勢いで、うかうかしていると知らない間に工事が進んでしまう。現場に先回りして、問題を発見・解決するのに精一杯で、息をつく間もない。裁判社会がそのまま反映されたアメリカでの仕事も驚きだった。とにかく契約の度に弁護士が登場し、簡単に済む話を変に複雑にして、プロジェクトの進行を結果的に遅らせることにあんる。民主国家らしく、物事を一つ決めるごとに関係者を集めての会議を開きたがるのにも閉口した。
・私が言いたいのは、他国での建築の現場を体験することによって、自国にいるとつい見過ごしてしまう、建築をその背後で成り立たせている社会の仕組みのようなものを、もっと相対的に見られるようになるということだ。建築家という職業の面白さは、一つの建物の設計を通じて、芸術や技術とともに、地域の歴史や文化、社会制度の問題と、いろいろなことを考え、いろいろな価値観に出会えることにある。その意味で、異なる世界の空気に身を置き、自身の建築を考えることが出来る海外の仕事は、絶好の”勉強”の機会だ。異国の文化を精一杯感じ取り、その場所にしかない建築に向かっていく。そうして新しい建築の可能性を探しているのである。
・2008年6月、東京メトロ副都心線が東急線に先行して開業すると、渋谷という場所柄、多くのメディアがその建築をニュースに取り上げた。面白かったのは、その多くが”卵”の造形的特徴以上に、自然換気の仕組みに反応を示していたところだ。「機械に頼らない地下駅の換気システム」、「環境負荷を軽減する地下鉄の風」・・・・・20年前ならば、一般にこんな形で建築がアピールされることはなかったろう。毎日数十万人の人間が往来する、渋谷の新たな玄関口の誕生が、”環境”の文脈で語られる。それほどに、人々の環境に対する危機意識は高まっているということだ。
・阪神大震災の後、数ヶ月の間は、事務所の仕事を一旦全て中断して、時に一人で、時に事務所のスタッフと共に、被災地を歩いてまわった。被災地につくってきた建物の被害状況を一軒一軒自分たちの目で確かめていくのと、何より、あの風景の凄惨さを、深く心に焼き付けておきたいと思ったからだ。復興には10年以上かかるだろう。そのエネルギーを自分自身、持続させるためには、この悲惨な現実をしっかり見据えておかねばならない-。地震で傷ついた神戸の街のために何か出来ないか。考える中で、依頼もないまま、復興ハウジングプロジェクトの構想を始めた。同時に、亡くなった人々への鎮魂の思いを込め、白い花を咲かせるハクモクレン、コブシ、ハナミズキの樹を住民自身の手で被災地に植えていく<ひょうごグリーンネットワーク>運動を始めた。復興を急ぐ余りに、人間の気持ちを置き去りにしたような都市再建は行われてはならない-10年後の神戸のためにと、必死で走った。
・建築に限らず、日本文化の独自性を探っていくと、結局最後に行き着くのは、四方を海に囲まれた島国の豊かな自然という地点である。温和な気候のもとに広がる、山川い沿った穏やかな地形を、春の桜、秋の紅葉、夏の深緑、冬の白雪と、豊かな四季の風景が覆う。外国の脅威を感じることなく、岩山や砂漠のよいな人間を威圧する厳しい自然もない-この小規模で変化に富んだ自然環境が、日本人の自然に対する感覚を鋭敏にし、20世紀初頭に日本を訪ねたフランスの詩人ポール・クローデルをしt、”世界一美しい国”と言wしめたほどに美しい、独自の生活文化を育んだ。特筆すべきは、そうした感性が、近世に、広く大衆に浸透したことである。浮世絵、歌舞伎といった伝統芸術が、人々に身近な存在としてあった日本は、当時の国際世界において、異例の民度の高さであった。
・独学で建築家になったという私の経歴を聞いて、華やかなサクセスストーリーを期待する人がいるが、それは全くの誤解である。閉鎖的、保守的な日本の社会の中で、何の後ろ盾もなく、独り建築家を目指したのだから、順風満帆に事が運ぶわけはない。とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった。それでも残りのわずkな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩きだし-そうして、小さな希望の光をつないで、必死に生きてきた人生だった。いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた。
・人生に”光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という”影”をしっかり見据え、それを乗り越えるべく、勇気をもって進んでいくことだ。情報化が進み、高度に管理された現代の社会状況の中で、人々は、「絶えず光の当たる場所にいなければならない」という強迫観念に縛られているように見える。大人の身勝手のせいで、幼い頃から、物事の影の部分には目を瞑り、光ばかりを見るように教えられてきた子供たちは、外の現実に触れ、影に入ったと感じた途端、すべてをあきらめ、投げ出してしまう。そんな心の弱い子供たちの悲惨な状況を伝えるニュースが、近頃はとみに目立つ。何を人生の幸福と考えるか、考えは人それぞれでいいだろう。私は、人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う。
<目次>
序章 ゲリラの活動拠点
第1章 建築家を志すまで
第2章 旅/独学で学ぶ
第3章 建築の原点、住まい
第4章 都市に挑む建築
第5章 なぜコンクリートか
第6章 断崖の建築、限界への挑戦
第7章 継続の力、建築を育てる
第8章 大阪に育てられた建築家
第9章 グローバリズムの時代に
第10章 子供のための建築
第11章 環境の世紀に向かって
第12章 日本人のスピリット
終章 光と影
面白かった本まとめ(2011年下半期)
<今日の独り言>
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