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ドイツの現状から改めて考える2022FIFAワールドカップでのドイツチームのパフォーマンスの意味

2024年12月08日 | 政治・社会

現在、ドイツではイスラエルによる虐殺や占領に反対する人々に対して、警察による暴力も含む国家的な弾圧が加えられている。反ユダヤ主義を取り締まるという名目で。イスラエル問題に関しては、ドイツに言論の自由はない。

ドイツは最近になって急に変わったわけではなくて、昔からこうだったんだと思う。前はイスラエル問題に注目する人が今より少なかったので見えにくかっただけで。 

ドイツのことを考えていたら思い出したのが、2022年にカタールで開催されたFIFAワールドカップのこと。このとき、ドイツチームは日本戦の前に口を塞ぐパフォーマンスをした。これには多様性などを訴える腕章の着用を禁じたFIFAやカタールの同性愛禁止への抗議の意味合いがあったらしい。

このパフォーマンスは「リベラル」から絶賛されていた記憶があるが、私は「嫌な感じだな」と思っていた。同性愛禁止を肯定しているとか、政治的なものをスポーツに持ち込むなと思っているとか、そういうことではなくて。私はむしろアスリートはどんどん政治的発言も政治的パフォーマンスもしてほしいぐらいに思っているので。

私があれを不快に感じた理由は、カタールに対する上から目線を感じたから。自分たちのほうが道徳的に優れた民族あるいは国民であるという差別意識からくる優越感。それにイスラモフォビアも。同じように同性愛差別していたとしても、かれらは白人国家あるいはキリスト教徒国家ではああいったパフォーマンスはやらないであろうことは容易に想像できたので。

それにドイツにおけるパレスチナの扱いのことも念頭にあった。カタールでワールドカップが開かれたのが2022年11月20日。その半年前ほど前からドイツはナクバの日の記念デモやイスラエルに殺されたシリーン・アブ・アクレ記者の追悼デモの禁止などをしていた。
ワールドカップがドイツ開催だったら、多様性などを訴える腕章の着用はできたかもしれないが、カタール開催の場合とは違ってパレスチナ旗を掲げることは許されなかっただろう。そうした自国の現状には抗議せず、カタールでだけああしたパフォーマンスをやるなら、西側国家の傲慢でしかない。

ドイツとは話が離れてしまうが、イギリスのロックバンド、The 1975が2023年のマレーシアでの公演で同性とキスするパフォーマンスをしたときにも同じような傲慢さを感じた。これはマレーシアでの同性愛禁止に抗議するという名目だったらしく、例によって称賛する「リベラル」が少なからずいた。

ちなみにThe 1975のボーカル、マシュー・ヒーリーはその前にも人種差別的発言が問題になった人物らしい。とても納得。あのパフォーマンスには「お前たち遅れたアジア人を白人様である俺達が正してやる」みたいな意識が透けて見えるので。
イギリスはマレーシアを植民地支配していた国で、同性愛禁止法をマレーシアに持ち込んだのもイギリス。それが分かっていれば、あんなパフォーマンスをすることも、それを称賛することもできないはずだ。

女性の権利もこうやって他国(特にイスラム教徒が多数を占める国家)にマウントを取るための道具としてしばしば使われている。女性差別をするな。セクシャルマイノリティを弾圧するな。それ自体は完全に正しい。だからこそ厄介だ。

フェミニズムを利用して排外主義的な主張をすることを指す言葉として「フェモナショナリズム」というものがある。特にイスラム教徒はその標的になりやすい。
差別反対のポーズを取りながら別の差別をする。これはフェミニストを名乗るトランス差別者にも見られる現象だ。そしてユダヤ人差別反対を名目にイスラエルへの抗議を取り締まる国もある。ドイツのように。こういうのはただ差別をするだけよりも厄介で悪質だと思う。


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