場末の雑文置き場

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「ヒロイン」ってなんだ?

2016年01月28日 | ジェンダー・家族等

日本では、「ヒロイン」というカタカナ語に、本来のものとは違う独自の意味付けがされている。しかも最近、ますます本来の意味から遠ざかった使い方をされることが多くなってきた。

英語のheroineという単語の意味は、女の主人公、女の英雄、有能で尊敬されている女性といったものだ。heroという単語を女性形にしただけで、その意味に大差はない。
だけど日本では、「ヒーロー」と「ヒロイン」には性別以上の差がある。日本でも本来の、女主人公という意味で「ヒロイン」という言葉が使われていることも勿論多いんだけど(例えば「朝ドラヒロイン」とか)、その話は置いておいて。

私の認識している限りでは、日本的な意味で「ヒロイン」と呼ばれるのは次のような人。

①. 主人公(男性)の恋人あるいは恋人候補の女性
②. 囚われたりピンチになったりして主人公に救い出される女性

①について。
もしかしたら、日本ではこの意味で「ヒロイン」という言葉が使われることが一番多いかもしれない。本来の意味よりも。ギャルゲーの攻略対象を「ヒロイン」と呼んだりするのが典型的な用法かな。「主人公にあてがわれる女」みたいな感じ。
日本では誤解されていることが多いけど、heroineという単語に「主人公の恋人」という意味は本来ない。

最初に書いたように、もともとは「主人公」って意味だったのにね。一段地位が下がってしまったような感じになっている。
英語でも、主人公が男性の作品で、女性の登場人物の一番手という意味でheroineという言葉が使われることはよくある。確かにこういうポジションの女性が男性主人公の恋人であるケースはとても多い。だけど必ずしもそうではないし、主人公と恋愛関係にあろうがなかろうがheroineはheroineだ。
日本では、出番の多さや物語の中での重要性ではなくて、男性主人公あるいは視聴者・読者の視点から見た女としての価値の高さで「ヒロイン」か否かの判断がなされているような気がするんだよな。特にオタク界隈では。

②について。
従来、戦闘要素のあるフィクション(主にアニメや特撮)では①的な意味で「ヒロイン」と呼ばれる人がこのような役割を担うことが多かった。
例えばピーチ姫なんかがそうだね。すぐに捕まって、マリオに助けだされるのをいつも待っている(最近はピーチ姫が主人公で自分で戦うゲームも出たけど)。
これが転じて、よく敵に捕まったりするキャラクターがアニメや特撮愛好者から「ヒロイン」と呼ばれることが多くなった、という感じかな。

囚われる=女の役割だという思い込みは、多くの人が共有している。現実世界では、人質になる人に女性が多いかといえば全くそんなことはない。だけど何故かフィクションの世界では、女性が囚われるパターンが圧倒的に多い。そして、それを男の主人公が助けだす、っていうところまでがセットになっている。

こんな風に女性が頻繁にピンチに遭うのって、支配欲の強い男性を満足させるための装置なんじゃないだろうか。こいつを救ってやった、自分のほうが立場が上だ、みたいな。
現実に「俺がお前を守る」なんて恥ずかしい台詞を吐く人もいるけど、こういう支配欲から来ていたりすることが多いと思う。

最近は男性でも、さらわれたりピンチになったりして助けられることが多いキャラクターは「ヒロイン」と呼ばれたりする。例えば、「進撃の巨人のヒロインはエレン」とか。
こういう言い方には、「男は強いもの、他人に守られたりするような奴は男じゃない」っていうニュアンスが暗に込められているような。
そして「女は弱いもの」っていう約束事があるから、強い女性、勇ましい女性は「男前」なんて呼ばれて男性枠に入れられる。現実の男性が肉体面はともかく、精神面で女性よりたくましいかって言うと全くそんなことはないのにね。「男前」は褒め言葉のつもりなんだろうけど、これが褒め言葉として使われること自体どうかと思うんだ。

ついでに書くと、英語のheroという単語には「英雄」だけじゃなく「主人公」という意味もある。平凡な男性でも主人公であればheroと呼ばれたりもする。でも日本では、「英雄」以外の意味で「ヒーロー」が使われることはほとんどない。
元々は性別が違うだけでほぼ同じ意味だった言葉なのに、カタカナ語になったときにヒーロー(男)は有能さの部分がより強調されるようになり、ヒロイン(女)にはもともとなかった従属的意味が付与された、っていうことになるかな。

こういう言葉の使われ方ひとつとっても、男性が主体、女性は添え物で客体、男性に救われる役割、という男女観が透けて見えてくる。日本的「ヒロイン」は男の主人公のために存在している生き物なんだよな。

最近になって多少は変わってきたかもしれないけど、今でもまだこうした男女観に則したパターンの物語のほうが多数派のように見える。このセオリーを外したものが作られると、茶化されたり、男性キャラクターが情けないとバカにされたり。

男性でも女性でも、性別にとらわれずにもっといろんなタイプのキャラクターが出てくるほうが、フィクションの世界にもより広がりを持たせられて面白くなりそうなのにな。性別によって「あるべき姿」を規定されて、その範囲内に押し込められるのってすごく窮屈だと思うんだ。


→「ヒロイン」なるカタカナ語の崩壊

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