*『豊竹屋』を私は六代目円生で聴きましたがこれも元は上方落語だったのですね。w
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イスラエルのクラスター爆弾使用 米が調査 2006年 8月26日 (土) 10:27
(朝日新聞)
イスラエルがレバノン空爆で使用したクラスター(集束)爆弾をめぐって、米国務省のガレゴス報道官代行は25日、米国が輸出した爆弾の使われ方に問題がなかったか、同省が調査していると明らかにした。イスラエルが使用したクラスター爆弾をめぐっては、戦闘終了後も、その不発弾が地雷と同様の被害を住民にもたらしていると非難されている。
同代行は「現地入りしている非政府組織(NGO)から情報提供を受けた。真剣に受け止めており、証拠に基づいて真偽を判断する」と述べた。
同日のニューヨーク・タイムズ紙によると、米国とイスラエルの間には、米国製のクラスター爆弾をイスラエルが使う際は、軍事目標だけを対象にするという秘密協定が76年に締結され、78年に更新されていた。
同紙の報道では、82年のレバノン侵攻時には、一般市民の居住地域でクラスター爆弾が使われた疑いがあるとして、米国は供給を停止。その後、議会の調査活動などを受け、88年まで輸出は止められていたという。
クラスター爆弾は、米国自身も最近の例ではアフガニスタンやイラクで使用した。1個の爆弾の中に多数の子爆弾が含まれ、投下時に子爆弾が広い範囲にばらまかれる。一部は不発弾として残るが、缶のような形状から爆弾とは思わずに拾い上げて爆発するといった惨事が紛争が終わっても後を絶たない。このため、国際人権団体などは非人道兵器だとみなし、国際的な条約で使用を禁止するよう求めている。
米国は01~05会計年度でイスラエルに総額約63億ドル(約7300億円)の武器を輸出した最大の軍備供給元。
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以上、引用終わり。
*まず大航海時代←こちらはウィキペディアだが、私のお勧めはむしろ↓下の
大航海時代とルネッサンスである。
これはかなり「きている!」と思う。
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例えば以下のような記述はどうだろう。
コリニー砦 制圧
ブラジル第3代総督メン・デ・サMem de Sa はフランス人を駆逐する訓令を受けていたが、難攻不落と思われるコリニー砦に手を出せずにいた。イエズス会ブラジル管区長マノエル・デ・ノブレガ Manoel de Nobrega に強く勧められて1560年1月バイアを出帆、2月21日グアナバラ湾に着いた。退去命令をコリニー砦に送り拒否された後、連日艦砲射撃を続け3月15日に上陸、翌日コリニー砦を制圧した。
生き延びたフランス人は本土に逃れて抵抗を続けた。
ポルトガルはカルヴァン派を強調し、フランス政府も強い態度はとれなかった。
大航海時代叢書第2期第20巻
以上引用終わり。
イエズス会、フランス、ブラジル総督、コリニー砦・・などという文字が連なるだけでなんだかワクワクして来る♪って、ちょっと変かな。w
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《奴隷制は昔は野蛮ではなかった?》
*「東回りのポルトガル・エンリケ航海王がアフリカ大陸沿岸を南下しながら黒人奴隷を調達していった」などと聞くと「学校ではそんなこと教わらなかったよ!」と意外に思う人もいるかも知れないが、古代ギリシャ国家群が既に「奴隷制」を生産基盤に据えていたように、その程度のことで驚いていたのでは歴史の話は出来ない。
日本にだって、中国皇帝に「生口」即ち奴隷を献上した歴史があるし、瀬戸内海には「生口島」が今もある。
戦争に敗れた側は「敗軍の将兵を語らず」どころか《人権》などそんな概念自体がないのだから当然一顧だにされず「煮て食われようと焼いて食われようと文句一つ言えない」という、そういう時代がつい最近までずうっと続いて来たのであって、M・フーコーを引き合いに出すまでもなく「ヒューマニズム」なんてものは長い人類史からみれば「ついこの間のちょっとした思いつき」に過ぎないのである。
関が原の敗軍の将=石田三成が京都四条河原で晒し首になったのはつい四百年程前のことだし、今でこそピサロは「口数の少ない野卑な男」ということになっているが、彼の野蛮さも北米移民らの野蛮さも《同時代的》であって、彼らがインディオらアメリカ原住民を無差別殺戮する事の《野蛮性》を、彼ら自身は《野蛮》としては認識し得なかった点自体が《野蛮》だったのである。
つまりこういうことだ。
中世が中世として同心円の枠内に留まっていることを止め、A・A諸国や南北アメリカの文明と直接の接触を開始した途端に《近代の野蛮性》が発現したわけである。
異人を教化し信仰によって神の国へ誘おうと図ったイエズス会らカソリックの者らも世俗の権力と利害の一致をみているのだから、この《近代の野蛮性》と無縁ではあり得なかった。
この《近代の野蛮》を第二次世界大戦後も着実に実践して来たのがアメリカ合衆国である。彼らも自分達に都合のいい傀儡政権をあちこちに樹立したがそれらは悉く失敗した。米のヴェトナムへの本格介入を決定付けた《トンキン湾事件》も、イラク攻撃の口実とした《大量破壊兵器の存在》も虚構だった。
ヴェトナムでは「メコン・デルタのジャングルがあるからヴェトコンが跳梁する」とばかりに大量の枯葉剤(ダイオキシン)を空中から散布してこれが今尚ヴェトナム人へ被害を及ぼしている。イラクで使用されたと言われる劣化ウラン弾も然りで、彼らの「アジア人蔑視」という深層心理は我が国への原爆投下以降も不変と言わざるを得ないのである。
別に現共和党政権がKKK並みのレイシスト揃いだとは言わないまでも、彼らはあまりにも簡単に人を殺し過ぎるのではないか。まるで彼らの世界戦略は西部劇の延長上にあるかの如くである。
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《パクス・アメリカーナ》
私はときどき思うのだが、何か世界中の人々が「泣く子と地頭には勝てない」「長いものには巻かれろ」と知らず知らずのうちにアメリカの言うなりになっているのではないかと・・。反抗はいつも散発的だし・・。
《パクス・ロマーナ》と言い《パクス・モンゴリア》と言う。イスラム帝国の場合はどう言うのか知らないが、彼らも「右手にコーラン、左手には剣」だったのだから基本は同じだったろう。
帝国が版図の拡張を目指して遠征した先の在来勢力が、唯々諾々とその軍門に屈して人頭税等の支払いに応ずるなら問題は起こらない。大抵一旦は反抗し、そして敗れて結果やむを得ず不本意ながら支配下に組み込まれることになる。
仮令表面上のことに過ぎないとは言え、従順になった者らを帝国の側が尚も無意味に弾圧迫害し、殺戮し続けることは原則的にはあり得ない。平時に返った彼らは放っておいても新しい生活を始めるわけだから、その彼らから余剰産品を収奪した方が賢いし理に適っているからだ。
被征服民族の側は好んで支配下に入るわけではないから、幾多の紆余曲折があったにせよやがては民族自決の闘いに立ち上がり、そして勝利する。
《パクス・ロマーナ》も《パクス・モンゴリア》も民族自決の前に敗れ去ったし、あるいは第二次大戦後の植民地の独立ラッシュも当然の帰結と言っていいだろうが、問題は今の世界は原則《パクス・アメリカーナ》の時代だということで、これが個々の民族自決云々では到底覆せない一種の抜き難い強固さを誇っていることである。
いったい《パクス・アメリカーナ》に終焉は用意されているのか。
他の誰か(例えば中国)がアメリカの世界支配にとって代わり得るのだろうか?
ネコに鈴をつけるのは誰か?
国連か?(これも一つの方策と思う)
《パクス・アメリカーナ》の時代の後に、どんな《平和》が想定され得るだろうか?・・とまあ話題は尽きないけれど、今回はここまで。w
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イスラエルのクラスター爆弾使用 米が調査 2006年 8月26日 (土) 10:27
(朝日新聞)
イスラエルがレバノン空爆で使用したクラスター(集束)爆弾をめぐって、米国務省のガレゴス報道官代行は25日、米国が輸出した爆弾の使われ方に問題がなかったか、同省が調査していると明らかにした。イスラエルが使用したクラスター爆弾をめぐっては、戦闘終了後も、その不発弾が地雷と同様の被害を住民にもたらしていると非難されている。
同代行は「現地入りしている非政府組織(NGO)から情報提供を受けた。真剣に受け止めており、証拠に基づいて真偽を判断する」と述べた。
同日のニューヨーク・タイムズ紙によると、米国とイスラエルの間には、米国製のクラスター爆弾をイスラエルが使う際は、軍事目標だけを対象にするという秘密協定が76年に締結され、78年に更新されていた。
同紙の報道では、82年のレバノン侵攻時には、一般市民の居住地域でクラスター爆弾が使われた疑いがあるとして、米国は供給を停止。その後、議会の調査活動などを受け、88年まで輸出は止められていたという。
クラスター爆弾は、米国自身も最近の例ではアフガニスタンやイラクで使用した。1個の爆弾の中に多数の子爆弾が含まれ、投下時に子爆弾が広い範囲にばらまかれる。一部は不発弾として残るが、缶のような形状から爆弾とは思わずに拾い上げて爆発するといった惨事が紛争が終わっても後を絶たない。このため、国際人権団体などは非人道兵器だとみなし、国際的な条約で使用を禁止するよう求めている。
米国は01~05会計年度でイスラエルに総額約63億ドル(約7300億円)の武器を輸出した最大の軍備供給元。
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以上、引用終わり。
*まず大航海時代←こちらはウィキペディアだが、私のお勧めはむしろ↓下の
大航海時代とルネッサンスである。
これはかなり「きている!」と思う。
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例えば以下のような記述はどうだろう。
コリニー砦 制圧
ブラジル第3代総督メン・デ・サMem de Sa はフランス人を駆逐する訓令を受けていたが、難攻不落と思われるコリニー砦に手を出せずにいた。イエズス会ブラジル管区長マノエル・デ・ノブレガ Manoel de Nobrega に強く勧められて1560年1月バイアを出帆、2月21日グアナバラ湾に着いた。退去命令をコリニー砦に送り拒否された後、連日艦砲射撃を続け3月15日に上陸、翌日コリニー砦を制圧した。
生き延びたフランス人は本土に逃れて抵抗を続けた。
ポルトガルはカルヴァン派を強調し、フランス政府も強い態度はとれなかった。
大航海時代叢書第2期第20巻
以上引用終わり。
イエズス会、フランス、ブラジル総督、コリニー砦・・などという文字が連なるだけでなんだかワクワクして来る♪って、ちょっと変かな。w
============
《奴隷制は昔は野蛮ではなかった?》
*「東回りのポルトガル・エンリケ航海王がアフリカ大陸沿岸を南下しながら黒人奴隷を調達していった」などと聞くと「学校ではそんなこと教わらなかったよ!」と意外に思う人もいるかも知れないが、古代ギリシャ国家群が既に「奴隷制」を生産基盤に据えていたように、その程度のことで驚いていたのでは歴史の話は出来ない。
日本にだって、中国皇帝に「生口」即ち奴隷を献上した歴史があるし、瀬戸内海には「生口島」が今もある。
戦争に敗れた側は「敗軍の将兵を語らず」どころか《人権》などそんな概念自体がないのだから当然一顧だにされず「煮て食われようと焼いて食われようと文句一つ言えない」という、そういう時代がつい最近までずうっと続いて来たのであって、M・フーコーを引き合いに出すまでもなく「ヒューマニズム」なんてものは長い人類史からみれば「ついこの間のちょっとした思いつき」に過ぎないのである。
関が原の敗軍の将=石田三成が京都四条河原で晒し首になったのはつい四百年程前のことだし、今でこそピサロは「口数の少ない野卑な男」ということになっているが、彼の野蛮さも北米移民らの野蛮さも《同時代的》であって、彼らがインディオらアメリカ原住民を無差別殺戮する事の《野蛮性》を、彼ら自身は《野蛮》としては認識し得なかった点自体が《野蛮》だったのである。
つまりこういうことだ。
中世が中世として同心円の枠内に留まっていることを止め、A・A諸国や南北アメリカの文明と直接の接触を開始した途端に《近代の野蛮性》が発現したわけである。
異人を教化し信仰によって神の国へ誘おうと図ったイエズス会らカソリックの者らも世俗の権力と利害の一致をみているのだから、この《近代の野蛮性》と無縁ではあり得なかった。
この《近代の野蛮》を第二次世界大戦後も着実に実践して来たのがアメリカ合衆国である。彼らも自分達に都合のいい傀儡政権をあちこちに樹立したがそれらは悉く失敗した。米のヴェトナムへの本格介入を決定付けた《トンキン湾事件》も、イラク攻撃の口実とした《大量破壊兵器の存在》も虚構だった。
ヴェトナムでは「メコン・デルタのジャングルがあるからヴェトコンが跳梁する」とばかりに大量の枯葉剤(ダイオキシン)を空中から散布してこれが今尚ヴェトナム人へ被害を及ぼしている。イラクで使用されたと言われる劣化ウラン弾も然りで、彼らの「アジア人蔑視」という深層心理は我が国への原爆投下以降も不変と言わざるを得ないのである。
別に現共和党政権がKKK並みのレイシスト揃いだとは言わないまでも、彼らはあまりにも簡単に人を殺し過ぎるのではないか。まるで彼らの世界戦略は西部劇の延長上にあるかの如くである。
============
《パクス・アメリカーナ》
私はときどき思うのだが、何か世界中の人々が「泣く子と地頭には勝てない」「長いものには巻かれろ」と知らず知らずのうちにアメリカの言うなりになっているのではないかと・・。反抗はいつも散発的だし・・。
《パクス・ロマーナ》と言い《パクス・モンゴリア》と言う。イスラム帝国の場合はどう言うのか知らないが、彼らも「右手にコーラン、左手には剣」だったのだから基本は同じだったろう。
帝国が版図の拡張を目指して遠征した先の在来勢力が、唯々諾々とその軍門に屈して人頭税等の支払いに応ずるなら問題は起こらない。大抵一旦は反抗し、そして敗れて結果やむを得ず不本意ながら支配下に組み込まれることになる。
仮令表面上のことに過ぎないとは言え、従順になった者らを帝国の側が尚も無意味に弾圧迫害し、殺戮し続けることは原則的にはあり得ない。平時に返った彼らは放っておいても新しい生活を始めるわけだから、その彼らから余剰産品を収奪した方が賢いし理に適っているからだ。
被征服民族の側は好んで支配下に入るわけではないから、幾多の紆余曲折があったにせよやがては民族自決の闘いに立ち上がり、そして勝利する。
《パクス・ロマーナ》も《パクス・モンゴリア》も民族自決の前に敗れ去ったし、あるいは第二次大戦後の植民地の独立ラッシュも当然の帰結と言っていいだろうが、問題は今の世界は原則《パクス・アメリカーナ》の時代だということで、これが個々の民族自決云々では到底覆せない一種の抜き難い強固さを誇っていることである。
いったい《パクス・アメリカーナ》に終焉は用意されているのか。
他の誰か(例えば中国)がアメリカの世界支配にとって代わり得るのだろうか?
ネコに鈴をつけるのは誰か?
国連か?(これも一つの方策と思う)
《パクス・アメリカーナ》の時代の後に、どんな《平和》が想定され得るだろうか?・・とまあ話題は尽きないけれど、今回はここまで。w