2021年(令和3年)3月11日は「東日本大震災」から10年目を迎えました。
お亡くなりになられました多くのみ霊に哀悼の誠を捧げます。合掌
尚、いまだにご遺体が不明のままの多くの犠牲者の皆様にお悔やみを申し上げます。
そしてさまざまな被害に遭われご苦労をされておいでの多くの皆様に心からお見舞いを申し上げます。
ここに私の10年前の記録を紐解いてみました。
戦没者遺児が亡き父の戦没地を慰霊訪問したいとの切なる思いから、平成3年に実施開始から平成23年は20周年を迎えました。
これを記念して海で犠牲になられた兵士のために初めて 「洋上慰霊」 が実施され、千葉県代表として参加の機会を頂きました。
「慰霊友好親善事業20周年記念「洋上慰霊」に参加して」
日 程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)
参加者 44都道府県から 363名 (内千葉県参加者14名)
「洋上慰霊」 7474.7kmに及ぶ運行航路 お世話になりました 「ふじ丸」
44都道府県から遺児参加者363名 団長様を囲んで千葉県遺児参加者14名
千葉県より十四名の遺児われら面識無くも縁を思ふ 嘉子
船上の洋上慰霊祭斎場 慰霊祭終了後はデッキにて白菊、おむすび他を捧げました
「鳥海」に届けと捧げし白菊を呑み込むごとく荒波が運ぶ 嘉子
3月5日神戸港に集合して 「ふじ丸」 に乗船、「結団式」 を行い、正午に出航しました。
各地域で延べ13回の慰霊祭を行い、途中上陸したフィリピンでは友好親善の一環として小学校や病院を訪問して学用品や車イスを寄贈致しました。
3月11日 (金) 7回目 ルソン島南方 (シブヤン海) 洋上慰霊祭 (午前)
8回目 サマール島北方洋上慰霊祭 (午後)
私は11日 (金) 午後、1時から(日本時間2時)私を含む20名の遺児が 「サマール島北方洋上慰霊祭」 を執り行って頂きました。
その席で、千葉県を代表して「追悼のことば」を奉読させて頂く機会を頂きました。
「鳥海」 田中艦長様のご子息様と父の好物を供えて 「追悼のことば」 を奉読中に大震災発生を夕刻に知る
「鳥海」の艦長の子息に出会ひたり船上に交はす熱きあつき握手 嘉子
「追悼のことば」の最後は次のように申し上げました。
この幸せは、ここ遠く異郷の地に眠りますご英霊の皆様のご加護のおかげと感謝を申し上げ、追悼の歌を捧げました。
海底に今なほ眠るみ霊らにわが生の限り祈り捧げむ 嘉子
「東日本大震災発生」は慰霊祭終了後に艦内放送で状況を知ることとなりました。
艦内放送が頻繁にされるも海上ではテレビ電話すべてが不可、被災地の遺児の皆様は不安を隠しきれずに掲示物を真剣に見入っておりました姿が忘れられません。
次々にボードにはられた記事の一部より
そしての3月12日 (土) 午前中 9回目 マリアナ沖方面洋上慰霊祭開始に先ず、「東北大震災」の犠牲になられました皆様に汽笛と共に黙祷を捧げました。合掌
この時のことを詠みました歌です。
戦死者と新たな死者への鎮魂に黙祷を捧ぐ汽笛と共に 嘉子
3月15日、最後の 「伊豆諸島近海洋上慰霊祭」 を行い、夕刻からは解団式及び懇親会を行い16日午前8時無事神戸港に帰港しました。
宮城県を初め、被災されました遺児の自宅が、家族などの様子が全く分からない状態に新たな悲しみの慰霊の旅になりました。
下船はしましたものの、被災地の皆様の交通手段は閉ざされ、スーツケース等の荷物の送付も出来なく、何日間も神戸近郊のホテルに宿泊、宿泊費は個人負担に出費も
重なりとてもご苦労をされました事を後日お伺いいたしました。
幸いにも千葉県一同が無事の帰宅を千葉県遺族会に報告ができホットしました事が思い出されます。
私ごとになりますが、2011年3月11日14時46分頃に発生しました「東日本大震災」時は、時同じくして父が乗船しておりました「鳥海」が眠っていると思われます
サマール島北方にて「洋上慰霊祭」を執り行って頂きました。
その折に千葉県代表として「追悼のことば」を奉読する機会を頂きました事は生涯忘れることができない私の大切な3・11となりました。
「洋上慰霊の3・11」を詠むの一部より
「ふじ丸」に届く「東北に津波発生」南方洋上にすべなく聞けり
船内のテレビ・携帯すべて不可 短波放送を息こらし聞く
ラヂオから千葉死者一名と三・一一の洋上の記憶
「ふじ丸」が揺れ始めたるは夕刻で室内待機の放送しきり
数万人の安否不明の記事に見る瓦礫の山は被爆せしごと(船内の掲示板の新聞に見る)
轟轟と白く立つ波星明かりに浮かべばいのちあるを思ふも
「落ち着いて行動せよ」と幾たびも亡父の声聞き死も想定す
三日後の父島通過に東北の甚大な被害を映像に知る
次々と伝ふる被害の映像は地獄図のごと戦争と重なる
「洋上慰霊」に同乗したる東北の遺児ら被災地のいづこにをるや(帰国後に詠む)
本当にあの船上でニュースを聞かれたとは
忘れられない思い出でしょうね。
そこで、前に遡り読み砕いてみました、有りました。
正座して玉音放送聴きし日は我が5歳のあの夏座敷
呆然と戦死公報握りしめ若き日の母土間に立ちゐつ
父なき後祖父母に諭され嫁ぎたる母恋ふる夜の頬の冷たき
「常に我が無事を確信し冷静成れ」と「鳥海」より届きし父の絶筆
此れらの歌を読みまして、半分方理解できたような気がいたします。
それにまた”3,11東北大震災&洋上慰霊祭斎場慰霊祭”とのめぐりあわせ……。
何とと申してよいやら、言葉が見つかりません……。
≫≫oko「さんが言っておられた、➡「洋上慰霊」に同乗したる東北の遺児ら被災地のいづこにをるや~何というめぐりあわせ。
震災10年とは申し新聞報道によれば、強大なソフトは完成しつつありますが、如何せんそこに納まるソフトがバラバラ纏まっていないとか。人間の心の鎮まりやら、近所付き合い、隣組、人間関係の縦横等のソフトが、人間関係の難しさが・・・とのこと。
1千日でも早い復興を願わずには・・・・祈るばかりです。
、
是非お会いしてお話を伺いたく何回もお電話しましたがお留守でした。
相変わらずご多忙ですね。
お帰りになりましたらお電話でお話させてくださいね。
お待ちしております。
あれから10年が過ぎましたが、初めての洋上慰霊に感謝の気持ちは
持ち続けてまいりたく思っております。
私にとっても3・11は特別な記憶の日となりました。
洋上慰霊に参加できました感謝と「東北地方の大震災」の被害を胸に刻んでまいります。
ご丁寧にお言葉を頂まして有り難うございます。
今になっても戦死の父が忘れられなく、何時も父を偲んでおります。
「鳥海」960名の戦死の慰霊でしたが、艦長のご子息とただ2名の再会は
忘れられない大切な思い出になりました。
初めての洋上慰霊の折は団長として初めてお会いしました14名の融和に
努めました事が思い出されますが、今でも皆様と懇親会を続けております。
勿論、昨年は中止に致しました。
綺麗なお花はお父さんに見て頂いております。
これからもどうぞ宜しくね。