この地上世界の「立て直し」については、出口王仁三郎師が、度々語られ、また国常立尊のメッセージである大本神諭でも、多く語られていました。ここでは、アマテラス様が、その「立て直し」そして、新時代を拓く「勇気」について語っておられます。
(ここから)
勇気なくして、新たな時代が拓けた、という事はありません。勇気なくして、新時代の精神が出来上がったという事もありません。勇気は、全ての全てです。勇気ありてこそ、新たな時代が拓けて行くのです。
私は皆様方に、三つの、勇気の大切さを語っておきたいと思います。
第一の勇気は、これは、信仰の勇気です。信ずるという事の勇気です。
信ずるという行為は、それ自体が一つの勇気である、行動である、という事を知りなさい。信ずるという事は、相手の中に最高のものを見出す、神の中に完全無欠なるものを見出す、という姿です。その姿は、一躍、神の世界に跳入するための勇気を必要とするのです。
現代の様に、実証主義の時代において、勇気を持って生きると言うことは限りなく大変です。信仰を持って生きるという事は、即ち、勇気を持って生きる事と同じなのです。他の人々が認めないことを、自らが認めて生きるという事。これは、何にも増して大事な事であろう、と、私は思います。
第二の勇気とは何か、と言うと、この世的なる欲望と闘う勇気です。
この世的なる欲望、人間として生きている以上、様々な誘惑があります。地位とか、名誉とか、金銭とか、異性であるとか、いろんな欲望があります。ともすれば、その中で流されて行きます。それが人間の愚かさです。そうした愚かさは、何とかして克服して行かねば、神の世界に入る事は、許されていないのです。
その、愚かさを克服する方法とは、一体、何でしょうか。私は、それを、やはり、欲望と闘わんとする決心にあると見ます。地上的なものを脱するためには、ぬるま湯から出て行く、風邪を引くかも知れぬという危惧(きぐ)は有りながらも、勇ましくぬるま湯から出る、という、外に身を投げ出すという行為が必要です。
執着を断つという行為がなければ、本当の意味において人生は開けて来ない。神の目で見た、素晴らしい自分(であること)は出来ない。信仰に至ることは出来ない。心の目を、心の窓を開く事は出来ないのです。
第三の勇気とは、即ち、是(これ)、向上の意欲であろうと思います。
人間は、ともすれば易きにつき、易きに流れ、怠惰な生活に流れて行きます。そうした時に、日々、自らを立て直さんとし、日々、自ら向上を目指して生きて行くという事は、限りなく勇気のいる事です。
皆様を向上させようとする者は少なく、皆様を堕落させようとする者の数は多い。平凡な生活に流されていく誘因は幾らでもありますが、しかし、平凡な生活の中から、非凡な力を生み出していくためには、数限りない勇気と努力が必要です。常に向上を目指して生きるという事、これが、また、大いなる勇気そのものであるという事を、あなた方に知って頂きたいと思います。
三つの勇気について語りましたが、これは、即ち、その時々における大いなる自覚と決心、決意という事でもあります。その時々に、自らの使命を自覚し直し、決意し直し、そして、決心をするという事。日々に、是(これ)、決心であり、日々、是、決意であり、日々是、自覚です。そうした自覚がなくて、勇気が生まれるという事は、決してないのです。
そこに、自覚を通して、大いなる世界への道が開けて來るのです。神理の門に至る道は、非常に険しい坂道となっているのです。そう簡単には、その、神理に至る門をくぐることは出来ないのです。この世的なる執着を捨て、重荷を捨て、ひたすらひたすら、その山道を登って行かないでは、神理の道を乗り越える事は出来ません。その関門に到達するためには、勇気という名の鍵が、どうしても必要なのです。
あなた方の多く、数多くの人に言っておきます。勇気なくして、本当の人生は開けない。時折、毎日でもよい、毎週でもよい、毎月でもよいが、自らに勇気があるか、意気地なしになっていないか、卑怯者となっていないか、そうした事を考え直してもらいたいと思います。
今の日本は、私達、神の目から見て、到底、座視することの出来ない現状にあると思います。
神の国において、神を信じない国民(くにたみ)が溢れている、という事は、この日本の神々にとって、どれほどの恥辱(ちじょく)であるかという事を、あなた方は、考えたことがありますか。日本の国を治めている我らから見て、この地上の国民(くにたみ)が神を信じていない、という事が、どれ程、恥ずかしい事であるか、という事を、あなた方は知っていますか。
そうした事が、いつまでも許されると思いますか。
あなた方も、私達の立場に立って、地上というものを見て頂きたいのです。自らの本質が霊である、という事を、知らずして生きている人が、どうして、これ程、多いのか。これを見て、何と思いますか。恥ずかしいとは思いませんか。情けないと思いませんか。悔しいと思いませんか。
皆さんが神であったならば、この日本の国民(くにたみ)の、嘆くべき現状を、どう思いますか。あなた方であったら、どうしますか。どうすればよいと思いますか。
神が、直接に、皆様方に怒りをぶつける、という事はないでしょう。しかしながら、厳しい姿となって指導することもある、という事は、知らねばなりません。皆さんが、私達の立場に立ったならば、厳しく、子供を諭(さと)すように叱(しか)ってみせる事がある、と思わないでしょうか。
本来であるならば、あなた方の前に姿を現して、あなた方全員に対して、憂国の思いを語りたい。日本の国を、私が、どれほど愛し、どれほど憂いているか、という事を語りたい。この、私の、内心の悲痛な思いを、断腸の思いを、知ってもらいたい。あなた方は自覚もなく生きているが、その無自覚な民を養っている神がいる、という事、これを忘れてはならない。
(今という)根本的な、立て直しの時に際して、私は、(実現すべき)三つの立て直しの柱を、打ち立てることとしました。
神というものに対する信仰を、大多数の日本人に持たせる、という事、これが第一です。
神に対する信仰を持たせる。神を信じさせる。国民の九割以上の人が(神の実在を)信ずる様な世界にしたい。こう、強く願っています。
第二は、霊的世界についての確信です。
霊的な世界が確かにある、という事を、人間には魂があって、それが、肉体という乗り舟に乗って魂修行をしている、という事を信じさせたい。
そうして、その魂修行は、今世のみのものではなく、過去・現在・未来を貫く、三世の魂修行である、という事を知って頂きたいのです。三世を貫く魂の修行は、これは、人間にとって、どうしてもどうしても必要な事なのです。これが、神が創った仕組みなのです。この根本原理を知らずして生きるという事、生きて行くという事が、どれほど愚かしい事であるのか、これを知らねばならないのです。
第三の柱は、これは、政治改革です。
これは、現代の政治の有り方は、如何(いかん)とも認め難い。政(まつりごと)をする人間は、徳高き人でなければならぬ。人々を導ける人でなければならぬ、人々の師となるべき人でなければならぬ。
単なる知名度であるとか、そうしたもので選ばれて行く現行の制度は、どうしても許し難い。やはり、優れた、人々を導ける徳のある器、師となるべき人が国政を牛耳る、という事が本来の姿です。最善の姿なのです。
指導者というのは数は少ない。数少ない指導者が、多くの人達を導いて行くという事になっている以上、多くの人々を導いて行くためには、どうしても、指導者達は優れた人でなければならないのです。優れた人達が指導者として生きて行かないで、指導者として選ばれて行かないで、どうして、日本の国の人々が、素晴らしい人々になるでしょうか。
徳高くない人達よ。単なる(事業的な)収益であるとか、或いは、マスコミへ名前が売れているとか、そうした事で政治家になっている人達よ。あなた方は、直ちに職を辞しなさい。本当に、人々に心を割って教えるべきもの、導くべきものを持っている人のみが、政治家として生きて行くことが出来るのです。
(ここから)
勇気なくして、新たな時代が拓けた、という事はありません。勇気なくして、新時代の精神が出来上がったという事もありません。勇気は、全ての全てです。勇気ありてこそ、新たな時代が拓けて行くのです。
私は皆様方に、三つの、勇気の大切さを語っておきたいと思います。
第一の勇気は、これは、信仰の勇気です。信ずるという事の勇気です。
信ずるという行為は、それ自体が一つの勇気である、行動である、という事を知りなさい。信ずるという事は、相手の中に最高のものを見出す、神の中に完全無欠なるものを見出す、という姿です。その姿は、一躍、神の世界に跳入するための勇気を必要とするのです。
現代の様に、実証主義の時代において、勇気を持って生きると言うことは限りなく大変です。信仰を持って生きるという事は、即ち、勇気を持って生きる事と同じなのです。他の人々が認めないことを、自らが認めて生きるという事。これは、何にも増して大事な事であろう、と、私は思います。
第二の勇気とは何か、と言うと、この世的なる欲望と闘う勇気です。
この世的なる欲望、人間として生きている以上、様々な誘惑があります。地位とか、名誉とか、金銭とか、異性であるとか、いろんな欲望があります。ともすれば、その中で流されて行きます。それが人間の愚かさです。そうした愚かさは、何とかして克服して行かねば、神の世界に入る事は、許されていないのです。
その、愚かさを克服する方法とは、一体、何でしょうか。私は、それを、やはり、欲望と闘わんとする決心にあると見ます。地上的なものを脱するためには、ぬるま湯から出て行く、風邪を引くかも知れぬという危惧(きぐ)は有りながらも、勇ましくぬるま湯から出る、という、外に身を投げ出すという行為が必要です。
執着を断つという行為がなければ、本当の意味において人生は開けて来ない。神の目で見た、素晴らしい自分(であること)は出来ない。信仰に至ることは出来ない。心の目を、心の窓を開く事は出来ないのです。
第三の勇気とは、即ち、是(これ)、向上の意欲であろうと思います。
人間は、ともすれば易きにつき、易きに流れ、怠惰な生活に流れて行きます。そうした時に、日々、自らを立て直さんとし、日々、自ら向上を目指して生きて行くという事は、限りなく勇気のいる事です。
皆様を向上させようとする者は少なく、皆様を堕落させようとする者の数は多い。平凡な生活に流されていく誘因は幾らでもありますが、しかし、平凡な生活の中から、非凡な力を生み出していくためには、数限りない勇気と努力が必要です。常に向上を目指して生きるという事、これが、また、大いなる勇気そのものであるという事を、あなた方に知って頂きたいと思います。
三つの勇気について語りましたが、これは、即ち、その時々における大いなる自覚と決心、決意という事でもあります。その時々に、自らの使命を自覚し直し、決意し直し、そして、決心をするという事。日々に、是(これ)、決心であり、日々、是、決意であり、日々是、自覚です。そうした自覚がなくて、勇気が生まれるという事は、決してないのです。
そこに、自覚を通して、大いなる世界への道が開けて來るのです。神理の門に至る道は、非常に険しい坂道となっているのです。そう簡単には、その、神理に至る門をくぐることは出来ないのです。この世的なる執着を捨て、重荷を捨て、ひたすらひたすら、その山道を登って行かないでは、神理の道を乗り越える事は出来ません。その関門に到達するためには、勇気という名の鍵が、どうしても必要なのです。
あなた方の多く、数多くの人に言っておきます。勇気なくして、本当の人生は開けない。時折、毎日でもよい、毎週でもよい、毎月でもよいが、自らに勇気があるか、意気地なしになっていないか、卑怯者となっていないか、そうした事を考え直してもらいたいと思います。
今の日本は、私達、神の目から見て、到底、座視することの出来ない現状にあると思います。
神の国において、神を信じない国民(くにたみ)が溢れている、という事は、この日本の神々にとって、どれほどの恥辱(ちじょく)であるかという事を、あなた方は、考えたことがありますか。日本の国を治めている我らから見て、この地上の国民(くにたみ)が神を信じていない、という事が、どれ程、恥ずかしい事であるか、という事を、あなた方は知っていますか。
そうした事が、いつまでも許されると思いますか。
あなた方も、私達の立場に立って、地上というものを見て頂きたいのです。自らの本質が霊である、という事を、知らずして生きている人が、どうして、これ程、多いのか。これを見て、何と思いますか。恥ずかしいとは思いませんか。情けないと思いませんか。悔しいと思いませんか。
皆さんが神であったならば、この日本の国民(くにたみ)の、嘆くべき現状を、どう思いますか。あなた方であったら、どうしますか。どうすればよいと思いますか。
神が、直接に、皆様方に怒りをぶつける、という事はないでしょう。しかしながら、厳しい姿となって指導することもある、という事は、知らねばなりません。皆さんが、私達の立場に立ったならば、厳しく、子供を諭(さと)すように叱(しか)ってみせる事がある、と思わないでしょうか。
本来であるならば、あなた方の前に姿を現して、あなた方全員に対して、憂国の思いを語りたい。日本の国を、私が、どれほど愛し、どれほど憂いているか、という事を語りたい。この、私の、内心の悲痛な思いを、断腸の思いを、知ってもらいたい。あなた方は自覚もなく生きているが、その無自覚な民を養っている神がいる、という事、これを忘れてはならない。
(今という)根本的な、立て直しの時に際して、私は、(実現すべき)三つの立て直しの柱を、打ち立てることとしました。
神というものに対する信仰を、大多数の日本人に持たせる、という事、これが第一です。
神に対する信仰を持たせる。神を信じさせる。国民の九割以上の人が(神の実在を)信ずる様な世界にしたい。こう、強く願っています。
第二は、霊的世界についての確信です。
霊的な世界が確かにある、という事を、人間には魂があって、それが、肉体という乗り舟に乗って魂修行をしている、という事を信じさせたい。
そうして、その魂修行は、今世のみのものではなく、過去・現在・未来を貫く、三世の魂修行である、という事を知って頂きたいのです。三世を貫く魂の修行は、これは、人間にとって、どうしてもどうしても必要な事なのです。これが、神が創った仕組みなのです。この根本原理を知らずして生きるという事、生きて行くという事が、どれほど愚かしい事であるのか、これを知らねばならないのです。
第三の柱は、これは、政治改革です。
これは、現代の政治の有り方は、如何(いかん)とも認め難い。政(まつりごと)をする人間は、徳高き人でなければならぬ。人々を導ける人でなければならぬ、人々の師となるべき人でなければならぬ。
単なる知名度であるとか、そうしたもので選ばれて行く現行の制度は、どうしても許し難い。やはり、優れた、人々を導ける徳のある器、師となるべき人が国政を牛耳る、という事が本来の姿です。最善の姿なのです。
指導者というのは数は少ない。数少ない指導者が、多くの人達を導いて行くという事になっている以上、多くの人々を導いて行くためには、どうしても、指導者達は優れた人でなければならないのです。優れた人達が指導者として生きて行かないで、指導者として選ばれて行かないで、どうして、日本の国の人々が、素晴らしい人々になるでしょうか。
徳高くない人達よ。単なる(事業的な)収益であるとか、或いは、マスコミへ名前が売れているとか、そうした事で政治家になっている人達よ。あなた方は、直ちに職を辞しなさい。本当に、人々に心を割って教えるべきもの、導くべきものを持っている人のみが、政治家として生きて行くことが出来るのです。
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