観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

昇仙峡 その1

2014年12月11日 | 旅・風景・グルメ

11月16日にツアーで行った「昇仙峡」は、初めての場所だった。
山梨県甲府市にあるこの昇仙峡の正式名称は、「御岳昇仙峡」
渓谷の散策を組んでいるバスツアーは数多いが、行ってみてもそれほど感動をしない場所も結構ある。
今回、時間の関係で、一番ポピュラーなコースを歩くことになった。散策コースの入口に着くと観光客と土産物店や食堂の多さに期待する反面
歩くだけでも相当時間を費やすのではないかと心配した。


土産物店や食堂を抜けると開けた場所があった。なかなか良いで眺めではないか。


少し行った所に高さ30mの綺麗な「仙娥滝」があった。
滝の名前の「仙娥」とは、中国神話に登場する月に行った女性の「嫦娥」のことであり、また、月を意味する単語でもある。
道教では、嫦娥を月神とみなしているようだ。
この嫦娥にちなみ名づけられた中国の月探査計画 は、「嫦娥計画」と名付けられ、嫦娥1号、2号、3号が 嫦娥計画の一環として打ち上げられ、以後4号・5号が
予定されている。


石洞と昇仙橋


昇仙橋部分を拡大

渡月橋

2014年12月07日 | 旅・風景・グルメ

渡月橋


ズームして撮影


昨年の9月、テレビでこの渡月橋が水没しかかっている映像を見て、木造の橋なのにどうして流されないのかと不思議に思っていた。
実物を見てびっくり。2車線の車道があるではないか。家で検索してみると、実は、欄干などを除き鉄筋コンクリート製だった。
全く知らなかった。

現在の橋は1934年に完成し、94年~2001年の改修工事で、欄干などの木造部分を新調し、鉄筋コンクリートの橋脚に鋼板を巻いて補強したもの
である。ちなみに、橋の上流側の川底に設置した7本の「流木止め」というコンクリート製の杭が、流木の橋への直撃回避に役立ち、流されずにすんだようだ。
ところで、丹波山地の大悲山付近を水源とする桂川は、水源から亀岡盆地辺りまでを「桂川」、亀岡と京都の間の峡谷は「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で
「大堰川(おおいがわ)」、そしてこの渡月橋より下流は再び「桂川」と呼ばれている。しかし、古くは葛野川と呼ばれていた。大堰川と呼ばれるのは、
5世紀後半に、秦氏が葛野地方に移り住み、この付近で桂川の流れをせき止める大きな堰(葛野大堰)を築いたことに由来する。
大堰川に最初に橋が架けられたのは、承和年間(834年〜848年頃)法輪寺を中興した道昌(弘法大師の弟子)で、法輪寺の門前橋であったことから「法輪寺橋」と
呼ばれていた。
時代は下って、渡月橋と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代、亀山天皇(在位1259年〜1274年)が、満月の夜、舟遊びの際に月が橋の上を渡るように見えること
から、「くまなき月の渡るに似る」と詠われたことに由来。 




平安貴族もここで船遊びを愉しんだとか。

トロッコ列車の旅 その2

2014年12月01日 | 旅・風景・グルメ

孫六岩
京都嵯峨の豪商、角倉了以の保津峡開削事業の最後の難関であるこの岩の開削に命をかけた「岩師」孫六親子にちなんで名付けられた。この命がけの
仕事に死に装束を着て作業にあたり、そして三日三晩、岩の上で火を焚き、やっとのことで岩を割った。しかし、孫六親子は岩が崩れた際、それに
巻き込まれて亡くなった。


トロッコ保津峡駅
2013年の18号台風で壊れたのを復旧


この駅で降車したのは、酒呑童子
伝説では、995年、一条天皇の時代に「大江山に住む鬼の酒呑童子を源頼光らが、毒酒を飲ませて泥酔させ討ち取った。」とされているが、歴史家の
高橋昌明は、994年に大流行した疱瘡がこの伝説に関わっているのではないかと考えているようだ。
この駅の南の方向に首塚大明神は、その首を都に持ち帰る途中に、ここで急に重くなり動かなくなったため、首て埋めたという首塚がある。このことから、
この酒呑童子に扮装した鉄道会社の社員?太秦映画村の俳優?が大活躍することになる。


有名な星野リゾートグループの「星のや京都」
客室は、角倉了以が邸宅を構えた場所に、100年前に建てられた旅館をリノベーションしたもの。


トロッコ嵯峨駅前に展示されているD51蒸気機関車(国鉄の全発注数 1,107両)
車両番号がD5151なので、1936年に川崎車輌で製造されたもの