日経225 38460 2024年6月15日

385万円を放置するとどうなるか?

大原美術館

2013年09月19日 09時11分54秒 | 絵画 

大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある美術館で、公益財団法人大原美術館が運営する。倉敷美観地区の一角をなす。

大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎1880年1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎1881年1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。

第二次大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市にすぎなかった倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かった。

大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。

モネの『睡蓮』は晩年の画家本人から児島が直接購入したものであり、マティスの『画家の娘―マティス嬢の肖像』も画家本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出したもの。児島はこんな機会は二度とないと思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原に写真を送り購入を相談した。現在では、これが大原美術館にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である。

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ゴッホの時代

2013年09月19日 08時39分11秒 | 絵画 

1853年3月30日 - 1890年7月29日 ゴッホ

1879年 - 1930年 萬

ラヴィ・ヴァルマ Ravi Varma, 1848年 - 1906年

児島虎次郎、明治14年(1881年) – 昭和4年(1929年)

 

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江戸時代の年号は36あった。

2013年09月19日 08時25分21秒 | 絵画 

1.慶長
2.元和
3.寛永
4.正保
5.慶安
6.承応
7.明暦
8.万治
9.寛文
10.延宝
11.天和
12.享
13.元禄
14.宝永
15.正徳
16.享保
17.元文
18.寛保
19.延享
20.寛延
21.宝暦
22.明和
23.安永
24.天明
25.寛政
26.享和
27.文化
28.文政
29.天保
30.弘化
31.嘉永
32.安政
33.万延
34.文久
35.元治
36.慶応
明治

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ロンドンのタワーブリッジ 山下清

2013年09月18日 08時45分47秒 | 絵画 

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平賀源内の絵

2013年09月17日 17時14分21秒 | 絵画 

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和田 三造 「南風」

2013年09月17日 15時22分43秒 | 絵画 

和田 三造(わだ さんぞう、1883年明治16年)3月3日 - 1967年昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家版画家帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞衣裳デザイン賞を受賞。

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張大千

2013年09月17日 14時17分58秒 | 絵画 

張大千(Zhāng Dàqiān, Chang Ta-Chien, Chang Dai-chien, 1899年5月10日 - 1983年4月2日)は台湾近代の書画家である。篆刻の分野でも活躍した。彼はまた多くの専門家に贋作者の1人として知られている。

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ラヴィ・ヴァルマ

2013年09月17日 13時54分00秒 | 絵画 

ラヴィ・ヴァルマRavi Varma, 1848年4月29日 - 1906年10月2日)は、インド画家叙事詩マハーバーラタ』および『ラーマーヤナ』の絵を描いたことで知られている。

ラヴィ・ヴァルマは絵のテーマを求めてインド中を旅した。南インドの女性を美の理想とし、その特徴を有したヒンドゥーHindu)の女神たちの絵を描いた。ボンベイ時代には、サリーを着たマハーラーシュトラの女性の絵を描いた。

 

 

 

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イリヤ・レーピン

2013年09月17日 10時59分45秒 | 絵画 

1873年から1876年までアカデミーの許可を得て、イタリアパリに遊学。パリでは、フランス印象主義絵画に接触して、の使い方に永続的な感化をこうむる。それでも依然としてレーピンの画風は、西欧の古い巨匠たち、ことにレンブラントのそれに近く、レーピン自身が印象派に属することはなかった。

白黒とはいえ、写真技術が普及してきた19世紀後半に、写実的な手法を守り切ったところに、彼の自信のほどが垣間見える。

出自の同じ一般大衆に生涯を通じて注目し続けたといわれる通り、手法ではなくテーマ性を追求したのだろうか。

 

 

 

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セオドア・ロビンソンの「牛飼い」のモデル 4枚の絵

2013年09月17日 10時05分54秒 | 絵画 

 セオドア・ロビンソンの「牛飼い」のモデル 4枚の絵

服装は酷似しているが、表情が微妙に異なる。

 

 

 

 

ジヴェルニー(モネの睡蓮の…パリから約80キロほど北西に位置するセーヌ川沿いの小村)にクロード・モネが移り住んだのは、1883年、42歳の頃だったという。

この地と周辺を描き名声を得た彼に続けとばかりに、その後、19か国を超す、300人以上もの芸術家が集まったらしい。

とりわけ、アメリカ人が7割にも達したそうで、日本からも児島虎次郎が訪れているというが、アメリカ人が絵画にいかに興味があったかが想像できる。


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