戦うことを考えるより、戦わないことを考える。戦わないためには、どう戦うかをとらえて、戦うことがあるのだから、戦わないためにはどう戦うかを、抑止論としてみる。戦争を不戦で考えることは可能か、平和国家を平和憲法の下で実現したかのように、不戦の誓いだけをもとにして戦争をすることがなかったのは、戦争が何かを考えずしてきたようなものだから、いわば奇跡に近いことであった。70年近く、大戦と対戦がなく過ごしてきた間を、戦わずして戦うことをしてきたことになるのだろう、と一人一人が思うことがある。わたしたちは本当に戦わないことをして戦ってきていると言えるのか、そうしているのか、戦うことがどういうことであるかを知れば、戦わないというだけでは済まされない。永世中立が実現していたとでもいうのだろうか。知る人が知る、戦争をその事実としてどう見てきたというのだろう。 . . . 本文を読む
国際法と国内法とその相関はいかに、国際公法と国際私法とは、平時国際法と戦時国際法とになるか、戦争放棄があることに、いや、違う、戦争法規があることに、戦時国際法は戦争状態を前提とし、その状態の下で交戦国間の敵対行為等を規制する戦争法規ないし交戦法規と、交戦国と中立国間に適用される中立法規とからなる、と説明があるが、なぜか要領を得ないのは、さらにみると、 >戦時法は戦争法ともいい,広くは,戦争に関する法すべてを含むが,普通は,戦時における交戦国や中立国の権利,義務を規定する戦時国際法jus in belloのみをさし,戦争を始めることが適法かどうかを定める法jus ad bellumは除外されることが多い。その場合は,戦争の当不当の問題は,平時法の中の紛争処理法の中で扱われることになる。 とあって、これは戦時だけにむずかしい。 . . . 本文を読む
人称代名詞は代名詞の一つとするが、そもそも代名詞を日本語文法でどう扱うかが、この人称代名詞を考えることになる。代名詞は名詞の代用とすれば、それはいかなる代用ということであるが、その定義は日本語ではとくにない。人称代名詞を人代名詞と言い換えても同じであるが、まだその方が、人称という文法範疇を表さないようでとらえやすいだろう。代名詞を品詞として名詞にふくめる議論が日本語ではあってよい。国文法ではそうするものがあって、日本語文法ではその範疇を捉えなおすべく、日本語教育などの応用から、とらえ方そのものには考え直さなければならないことが多いようである。これは指示代名詞として代名詞を考える場合にも、指示詞とだけすればわかりよい日本語としての現象にある用法あるいは文法機能のことがらである。 . . . 本文を読む
俺、おれだよ、と、電話口で言うそうだ。そうすると、息子だなと思う親また祖父母がいて、ふんふんと聞くようなことだが、その語に響く口調があるのだろう。俺、いつから使うようになったか、詞の成立から見ると、おれ おのれ と関係する説がある。おのれ これは己と書き、自分自身、わたくし、といった意で使われる言葉である。俺 という文字づかいは、音読みにして、えん となるが、使われる例がほとんどないので、漢字表記の用いられた場面が限られるだろうか。日本国語大辞典に、 >自称。本来は卑しい男性の使用する語であったが、江戸時代においては「おれ」「おいら」とともに江戸町人の女性も用いた。おらあ。 とある。おのれ おれ おのれら おいら おらぁ など、話し言葉としての要素が強い。 . . . 本文を読む
多言語表示に乗り遅れ? JR東海は英語のみ 「文字小さくなる」 中日新聞トップ記事、見出しである。20140506 リードには、
日本を訪れるアジア圏の旅行者が増える中、JR東日本や私鉄では、鉄道の駅名や乗り場などの案内表示を中国語や韓国語で示す取り組みが広がる、とある。
記事の中見出しには、中韓ポルトガル語…整備進む 中部の主要鉄道 とある。記事には、
JR東海を除く中部の主要な鉄道会社では、二〇〇五年の中部国際空港開港や愛知万博を機に英語以外の多言語表示化が進んだが、会社によって言語の種類などの対応は分かれている、とある。
トップ左には写真記事で、「絶対また来るもん」 Uターン始まる とある。20140506 記事には、
ゴールデンウイークを故郷や行楽地で過ごした人たちのUターンラッシュが五日始まり、高速道路は名古屋方面へ向かう車で渋滞した、とある。
その下には、日仏が防衛装備交渉へ 首脳合意 高速炉研究も協力 とある。20140506 記事には、
フランスのオランド大統領とパリの大統領府で会談し、防衛装備品の共同開発に関する政府間協定締結に向けた交渉入りで合意した、とある。 . . . 本文を読む