文化論の文化の定義が捉えられて、文化の価値が文化そのものをあらわす議論となり、文化の相対性が明らかになるにつれ、その文化特有の議論はステレオタイプに帰せられ、文化を語ることは文化そのものの実践をさすようになる。言語教育に言語と文化が議論されると、それは日本語とその文化にも影響し、文化そのものを語ることが変容する。そこには文化講座の意味をもってカルチャーセンタの時代がある。生涯教育に連動するものであったが、文化は街へと繰り出し、サブカルチャーが盛んとなる。 . . . 本文を読む
夏目漱石、夢十夜、1908年の7月から8月にかけて朝日新聞紙上で10回連載されたそうだ。それを、現代によみがえらせる、小説本文は現代仮名遣いの岩波文庫版に準拠ということである。
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人のためならず この語法が、解釈のもとになる。情けは というときの、言い方も、情けをかけることは、というふうには受け取られなくなってしまったのだろう。情けをかけることと、情けをもって人助けすることとは相いれない。人に親切にすることは、などの、言い回しがすでにおかしいのである。情けをかけることはそうそう、たやすいことではない。人のためならず は、打消しの語法として、情けは人のためなり を、打ち消したものであるから、情けは情けはひとのためにある、その情けを人のためにあるとしなければ、それをうち消して、つまるところ、情けはひとのためにあるのではなくて、情けは誰のためにあるか、それは、情けをかけることの行為を自らの行為としてとらえる言葉であるから、そこに現れた人のために情けをかけることの重要性を認識している。人に情けをかけてもらった思いがあるかどうか。この頃の世知辛い世相ではない、厳しく生きる人々の倫理には、恩を感じる時代のあったことである。 . . . 本文を読む