海洋と農耕と、それは大地に放牧することはなかったが、山地の多い狭い国土で人々が生きてきた工夫は、自然をともにして天気を知ることであったから、それは知恵に工夫に発想に加えての知識であった。自然は季節風によって土地に棲息するものの色合いを変える。山間盆地にひそめば昂は天だけであるし、海に臨めばヒカル海面だけであるが、それを見続ける人間は絶えずアイデアを絞る働きを課せられてきた。それが日本人であるから、そこにもたらされた外来の思想には言葉をもってすべてが表わされるようにも見え、それをわがものとする学習が常となった。文字が言葉であったから、その音をまね、自らのことばの発音をあみ出して、そこには文字からなる思惟を得て営々、社会を維持し、政治を祭ってきた。日本風土にあるものは開拓、開墾の知恵から、海にも向けた遠洋航海の術、そこには資源をエネルギーとする時代が、火力の取り方とそのエネルギーの出し方を教えて、文明思想の中でアイデアを絞ったのは、産業である細工、繊維、窯業に、そえられた鉄鋼にあった。 . . . 本文を読む
to go senile ゴー・セナイウ、senile 形容詞、老衰の ぼけた となる。好むと好まぬとにかかわらず、年齢が進めば、そうなる。海の若大将は、いまもバンドとともに歌っているとのことである。元気なものである。バンド仲間とのゲームによって、シニアを忘れるらしい。ボケるというのは、呆ける 惚け の語であるが、痴呆となると、やまいだれのことになる。症状が固定する、つまり障害を持つことになるだろう。その脳障害の自覚は、それも忘れてしまえば、わからなくなる。さて、ふつうのところで、隠居すれば、それまであった緊張が、生活になくなるわけだから、仕事とはよく言ったもので、仕えるということは緊張を強いている、社会的やくそくごとの中で、そうなっているから、それは何事も忘れるわけにはいかない。思い出すことも、覚えることも、記憶を整理することも、いわば、いっそ忘れていれば、楽だというのは生活環境に及ぶ。家人にすれば家庭内での迷惑になる、生活の支障が出る可能性もある。徘徊などというのも、これは家庭内にとどまらないから、いまこの時間に散歩をしようなどと為れば、それは、そういう行為となる。病的であるかどうか、要するに日常のサイクルで暇なのであるが、帰る、家に戻る本能を忘れてしまえば、大騒ぎである。 . . . 本文を読む
検索に入れてみたら、Bingとは、主な意味 ライカーズ刑務所の独房、 Rikers Island for solitary confinement を指すと、英和辞書に出た。コンピュータ画面上に、いつしか、現れるようになった、米国マイクロソフト社が開発したサーチエンジンである。>キーワードによる全文検索のほか、画像、動画、ニュース、地図の検索が可能。2009年より日本語版サービスも開始された。同社のポータルサイトであるMSNのサーチエンジンとしても利用されている。 という解説があるので、日本語では、ここ7年のこと、となると、旧名称、 MSN サーチ、Windows Live サーチ、Live サーチがああったから、もとより、検索エンジンには、サービス提供会社のそれぞれのソフトが特徴を持つので、ずっと、グーグルであった。いまも、使うことはないが、この名前の由来については、必 の中国語によるというので、びっくりした。有求必応。 . . . 本文を読む
米国大統領が朝鮮戦争で核兵器を使うと脅して、北朝鮮の金日成は戦争をやめた、というふうに語り伝え、その事実はいかが。
>朝鮮戦争[編集]
金日成を指揮官として称える壁画
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦のおいて勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満州という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった[26]。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる[27]。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。
9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹)[28])を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した[29]。
10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍及び朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派の朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた[30]。
その後、戦局は38度線付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。1953年2月7日、最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与[31]。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。 . . . 本文を読む
そつのない 慣用句になるが、現代語で、そつがない と用いると、その そつ とはなにか、あること、ないこと、という言意味内容であるが、慣用の言い回しには、そつが出る そつをする というのが見える。そつなる人 と言いう用例が16世紀に見える。それから、現代語の使い方には、慣用的な言い方となって、話ことばであったか。損失を意味する意味合いが庶民にあったか。そつがあるのは、果たしてどういう意味になるか、打消しとなる言い方の、表に返すような意味になるようなことではない。 . . . 本文を読む