子知る、し である。天、神、われ、そして、し しる であった。それで、四知となるが、原文には、地との違いがある。出典は酢であって、流布する言葉に異伝があった、ということか。天地と、天神では、人口に膾炙する、受け入れようがあったのだろう。
>【四知】(しち)
『後漢書楊震伝』二人の間だけの秘密でも、天も知り、地も知り、我も知り、
相手も知っているから、いつかは他に漏れるものであるということ。
《広辞苑》 . . . 本文を読む
ひと われ 知る われ ひと 知る われ ひと ひとつならず また ひと われ ひとりならず 同窓会に出席をした。、同窓生には1名、出会い、教員に1名、会った。席番はテーブル№7、7である。その隣に、30数年前に教師になって知りあうことができた方が、偶然、いらした。その後、20年を経て、この同窓となって、教員のめぐりあわせであった。わたしにとってみれば、その昔を知る、なつかしい。若気の至りをもって、いろいろと、ご迷惑が及ぶ。話になれば、思い出語りは赤面することである。そうして、それにも関わらない、変わらないお人柄に接して、いまとなってなお、大変に感謝申し上げたことである。場の話で盛り上がったのは処分するかどうか、その問いかけは書斎にゴマンとある本、プリント資料の整理であった、それをどうするかについては、同じような日々で、その解決法があるなら、わたし方から、教えていただきたいことであるから、できるか、できないか、ああだこうだと話をして、2時間ほどを過ごした、という、楽しいいひとときである。 . . . 本文を読む
主体は絶対主であると考えると、主体は神であるとする議論があるが、これがわたしたちに難しい。宗教神である絶対主はその考えを信仰から生じている。信仰によるだけでなく、哲学の根本、思想にも及ぶと、わたしたちには、絶対主がない、ないというよりは、あり得ない考え方として、絶対主をあがめる側からすれば受け入れられない、いわば、相対主を考えに持つからである。したがって、わたしたちには主体は常にあって、どこにあるかとなると自らが主体なのであって、他もまた主体なのである。そうすると宗教神のよりどころに、人は神によって造られたものではなくて、人は神がなり代わって生まれ出たもの、人の祖先は神であるという、素朴な思いから、人はまた神に戻るのである。その世死観にあれば、神はいたるところで神なのであるから、絶対神ではない。死んで神になるという発想は新たな思想を入れて、人が死ねば仏になるという信仰をもって、多くは浄土での再生を願うのであるが、人が神から人になりそしてその個体においては涅槃において仏であるとする、いわば宗教上の発想を得てまた、仏は生まれながらにしてそうであるのか、どうすれば仏になるのかという、日本人の信仰を生み出してはいるが、すでに絶対神はないので、西欧の思想のように、わざわざ神々はは死んだと、絶対神をそのままにするために叫ばなくてもよい。 . . . 本文を読む