生産を生産高でとらえる。それは消費動向を基にする。消費を考えない生産はただ産出に過ぎない。生産と生産高を計画経済である指標のもとに生産し続けると、その指標は物量を競うことになる、労働者はその労働力を生産物で測る、あるいは労働の証に作り続けるということを蓄積量によってその物量の大きさだけが求められる。1990年代に中国に出かけてその光景をいくつも目にした。取り出して言えば、バスタブがいくつもつくられ、それが野ざらしで山積みになっている、鉄鋼製品があってそれが倉庫にわんさか入っていると言った、それこそ奇妙な光景である。そのバスタブが大きくて大陸使用のどでかいもので、ホテルの製品としてしつらえるのだが、ホテルというのは招待所であったり、そのころの建築にはとにかく規格サイズにその生産物が収められるようになっているのだが、まったく、いくつあるのだろうと、放置されたものを眺めた覚えがある。そのころから、中国経済は1国2制度にあって、管理経済に転換を遂げる。訪ねるたびにホテルの部屋サイズが縮小して、バスタブが身長サイズに替わっていた。これは日本での光景に合わせた生産をとらえると自動車の生産量に見ることになる。世界生産という表現は輸出としてまずはあったから、港に積載待ちの自動車の量をなす列は、どこの国へ輸出するのかと、生産と販売を思わせた。 . . . 本文を読む