語彙論を話す。語と語彙の違い、単語と語集合の議論となる。語は単語になると、ひとつの形態を見る。語と形態のレベルがあるのは文法論であるから、語論に対して、形態論があるわけではない。語論似合ったのは語構成論である。語の単位を文法的に見るか、意味的に見るか、それは形式と内容の対応である。意味記述は語について行われてきているから、その意味の変遷をとらえると、語の論として歴史を見る、つまり、語誌になる。この語誌も語史というふうに表記する場合があって、語史における語彙のとらえ方で、語彙史と呼ぶ研究領域が先行した。語は形式に音声を基準とするので、文字に基準をおき漢字を語の議論にする、つまりは言葉の論議である、日本語の漢字表記、仮名表記の語のとらえ方をふつうにしてきている。 . . . 本文を読む
文化庁国語調査、平成27年度国語に関する世論調査の結果について報告、調査目的は、文化庁が平成7年度から毎年実施のもの、1年前のリマインダーである。平成27年度国語に関する世論調査は、このブログで25日に、存亡のとき に、ついて書いた。慣用表現、誤用おけなる存亡の危機、につての使い方、またいつものように、正しい意味はどれか、さわり などの項目があった。コミュニケーションにおける日本語を、国語としなくなってしまうと、このような表現も問い方が変わってくるのかと考えてしまう。国語調査で日本語調査をするという、国語の伝統的なとらえ方を共時的に切り取ってしまうようで、調査者に国語を見ようとしない、その意図があると、結果は正しい語の用法、意味の説明にはならない。存亡の秋、危機については危急存亡の熟語の連想があるし、曲のさわり とするところ、耳障り、目障りのような連想を持たせる質問のしかたである。 . . . 本文を読む
せけん じんかん むげん 世間 人間 無間 である。世間は世の中となった。さらには社会、世界である。人間は人類となった。さらに人々である。無間は地獄であった。さらさら、日本で描かれた地獄には悪人が落ちる。これは日本思想である。すべてに現実である、地獄に落ちるものも悪人正機となった。>悪人正機は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。 ウィキペディアより ここに仏教が作り出した差別に、日本仏教が現世においての救済を行った。神の前に、仏の前に、人間はひとしく人間であるという発想は、日本人のものとなった。神から人になり、人から仏になる、この人が人である所以をわたしたちは持つのである。 . . . 本文を読む