がくもん が、あった。
学文をがくもんとして、その一方で、学問であったので、音による がくもん であった。
その学問は学文の読みを受け継ぐようになった。
時代的には明治期になって学文とまだ使われることがあったので、さらに下って昭和期の当用漢字の制限にあわせて学問とするようになったかもしれない。
がくもん であったのだから、学問と表記をつけてもそれは、古代に
*続日本紀‐天平二年〔730〕三月辛亥「大学生徒〈略〉専精学問、以加善誘」
から漢字の移入があって行ってきたのを継承することになる。
つまり日本語のなかでは、がくもん であり、表記は学文、学問とのふたつがあった。
おそらく文章を学ぶという、学文の意味が優勢であったのだろう。
天文地文水文とあり、人文という語があって、文には文章を通した知識の綾があったと推測する。
日本国語大辞典より
天文の語例
*易経‐賁卦「観乎天文、以察時変、観乎人文以化成天下」
*書紀〔720〕天武一三年一一月(北野本訓)「戌に逮(いた)りて天文(テムモム)悉くに乱れて星隕つること雨の如し」
*懐風藻〔751〕大津皇子伝「時有新羅僧行心、解天文卜筮」
*今昔〔1120頃か〕一〇・四「天文の者、七月七日に参て、天皇に奏しける様」
*今鏡〔1170〕三・内宴「天文などいふ事をさへならひて、ざえある人になん侍ける」
*とりかへばや〔12C後〕上「おんみゃう、天文、ゆめとき、さう人などいふ事まで、みちきはめたるざえどもなりける」
ちもん、すいもん について見ると、地文、水文は項がない。地文学、水文学としての項を立てる。
人文については、次のようである。なお、人文学の項はない。
*易経‐賁卦「観乎天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」
*懐風藻〔751〕序「逖聴前修、遐観載籍、襲山降蹕之世、橿原建邦之時、天造草創、人文未作」
*菅家文草〔900頃〕一・仲春釈奠、聴講孝経、同賦資事父事君「謂之行者、俯察人文」
学文をがくもんとして、その一方で、学問であったので、音による がくもん であった。
その学問は学文の読みを受け継ぐようになった。
時代的には明治期になって学文とまだ使われることがあったので、さらに下って昭和期の当用漢字の制限にあわせて学問とするようになったかもしれない。
がくもん であったのだから、学問と表記をつけてもそれは、古代に
*続日本紀‐天平二年〔730〕三月辛亥「大学生徒〈略〉専精学問、以加善誘」
から漢字の移入があって行ってきたのを継承することになる。
つまり日本語のなかでは、がくもん であり、表記は学文、学問とのふたつがあった。
おそらく文章を学ぶという、学文の意味が優勢であったのだろう。
天文地文水文とあり、人文という語があって、文には文章を通した知識の綾があったと推測する。
日本国語大辞典より
天文の語例
*易経‐賁卦「観乎天文、以察時変、観乎人文以化成天下」
*書紀〔720〕天武一三年一一月(北野本訓)「戌に逮(いた)りて天文(テムモム)悉くに乱れて星隕つること雨の如し」
*懐風藻〔751〕大津皇子伝「時有新羅僧行心、解天文卜筮」
*今昔〔1120頃か〕一〇・四「天文の者、七月七日に参て、天皇に奏しける様」
*今鏡〔1170〕三・内宴「天文などいふ事をさへならひて、ざえある人になん侍ける」
*とりかへばや〔12C後〕上「おんみゃう、天文、ゆめとき、さう人などいふ事まで、みちきはめたるざえどもなりける」
ちもん、すいもん について見ると、地文、水文は項がない。地文学、水文学としての項を立てる。
人文については、次のようである。なお、人文学の項はない。
*易経‐賁卦「観乎天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」
*懐風藻〔751〕序「逖聴前修、遐観載籍、襲山降蹕之世、橿原建邦之時、天造草創、人文未作」
*菅家文草〔900頃〕一・仲春釈奠、聴講孝経、同賦資事父事君「謂之行者、俯察人文」