茶番劇と言う語は、辞書には、転じて底が見え透いていて芝居がかった行動をさすと解説がある。転じてとあるのは、立茶番と口上茶番からの意。
>「立茶番」はかつらや衣装を着けて芝居のもじりをするもので,京坂の「俄 (にわか) 」と同類のものであり,また「口上茶番」はすわったままで種々の物品を取出し,滑稽や洒落で落 (おち) をつけるものである。
そのもとは似て非なるものの、なんとも、おかしいというのを通り越して、プロバガンダは極まれりと感じた。
何か。
大統領と国防相の面会に、ロシア国営テレビのものだという、放送では、ショイグ国防相がマリウポリの支配確立をプーチン氏に報告した。プーチン氏は「ハエも飛んでいかないように産業地区の封鎖」を求めた、と見える。「ロシアの部隊はそれ(製鉄所)を奪うことが物理的にできないということを意味している」というプーチン発言の解釈もある。製鉄所の攻撃を停止ならぬ中止はまさしくそういうことかもしれない。ここまでの戦いは、50日を越えた攻防である、ロシア側の一方的な攻撃をロシア国民に見せるためのことだったかのようである。
ウクライナが行ってきた、駐日ロシア大使の言う、ジェノサイドは1万2千人に及んだというから、大使が言えば言うほど嘘に上書きをし続けたフィクションによる報復劇なのである。
露軍の弱体は覆いようもなく露呈した士気のなさには抵抗のできない1万数千人の市民の犠牲にあらわされた無謀である。
>ロシアの“プレイブック” 欧米の政府やメディアはロシアの“プレイブック”と呼んでいます。
▽病院や学校など、公共施設への無差別な空爆や砲撃
▽アパートなど市民の住宅の徹底的な破壊
▽都市を包囲してからのミサイル攻撃
▽食料や水、医薬品の供給を断つ兵糧攻め
▽「人道回廊」(避難ルート)を設けつつも続く攻撃
これらはいずれも「最大の激戦地」とされる東部マリウポリで起きていることです。
市民の犠牲をかえりみないロシア軍の軍事作戦です。
>こうした攻撃について、ロシア側はあくまでも軍事施設を標的としたもので、民間人に対する脅威はないと主張しています。
>「町が包囲され、最初は病院や水道施設などのインフラが攻撃され、公共サービスが途絶えました。人々を強制的に移住させ、住宅地域を支配しやすくするためで、それまで攻撃を続けてから侵入してきます。それが今、まさにウクライナで起きています」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220408/k10013572231000.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR217M60R20C22A4000000/
プーチン氏、マリウポリ掌握宣言 「製鉄所攻撃を停止」
2022年4月21日 16:55
【ロンドン=佐竹実】
>ロシアのプーチン大統領は21日、ロシア軍が包囲攻撃するウクライナ南東部の港湾都市マリウポリについて「解放のための戦闘は終了し、成功した」と事実上の掌握を宣言した。ウクライナ軍が立てこもって抵抗を続ける製鉄所アゾフスターリを巡っては、掃討作戦停止と封鎖を命じた。国営テレビで述べた。
放送では、ショイグ国防相がマリウポリの支配確立をプーチン氏に報告した。プーチン氏は「ハエも飛んでいかないように産業地区の封鎖」を求めた。
マリウポリはアゾフ海に面した要衝。陥落させれば、ロシアが2014年に併合したクリミア半島と自国をつなぐ陸続きの回廊ができあがるため、ロシア軍は市街地に無差別砲撃を加えるなどして制圧を急いできた。ウクライナ側によるとロシア軍は製鉄所の地下施設を破壊できる特殊貫通弾(バンカーバスター)も使用した。
マリウポリはロシアが「ネオナチ組織」と敵視してきた「アゾフ大隊」が主力となって防衛してきた。ウクライナにとっては愛国主義的な徹底抗戦を象徴する重要な拠点なだけに、プーチン氏が侵攻の「成果」をアピールできる内政的な効果も小さくない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「茶番」の解説
茶番
ちゃばん
茶番狂言ともいう。滑稽即興寸劇。江戸時代の歌舞伎劇場の楽屋で,大部屋の下級役者の仕事であった茶汲み役を茶番といったが,当番になった者はいろいろと工夫を凝らして余興をしてみせる風習ができ,これが天明年間 (1781~89) には吉原をはじめ一般民間にも広まった。