友誼賓館の居室にいて停電があった。ホテルになっているが、電圧が一定しないとのことで、電気製品には高電圧変換だけでなく、電圧器が必要であった。こう書いて思い出していくと懐かしい。それは朝になるとドアの前に魔法瓶が2本、熱湯を入れて置いてあるという生活だった。前の晩に、カラ瓶を出しておかなければならない。水道水が飲めない頃だった。それが、いまはペットボトルか浄水装置かなにかで硬水を飲めるようにしている。そのころに、電気が止まることはよくある話ではあった。ホテルでは、めったとなかったから、そのときもすぐに回復した。そして思ったのである。首都に滞在していて、この国の将来を思えば、電気と、物流と、衛生の3つが安定することだ、と。大げさに思っていたわけではなくて、日常生活から素朴に思って、そう考えてしまう立場を与えられていた。1984年、いまから35年もさかのぼるから、そういう待遇で偉そうなことであった。しかし、いま、そのころを思い合わせていると、世代がかわってしまって、ホテルの居住区も周辺の状況にも開発が進められて想像もつかないくらいに変わってしまっているので、信じられないような昔語りとなってしまう。さて、その3つのうちの、一番遅れていた、遅れているのが衛生についてであるということが、このところのコロナウイルスによる病毒の感染で、明らかになった。3つのうちでもっとも進んだのは道路整備、高速網の構築と、主産業ともなったモータリゼーションの結果で、これは輸送力を見ることになるが、都市と地方間の物流が経済発展を大きく促してきた。電力は供給の面では石化燃料による火力発電が公害を引き起こしながらも、必要量にくわえて安定してきているようでもある。もう一つの衛生については民度の向上がかかわって、経済が変化するにつれて、豊かさに比例して暮らしの中で改善されてきた住宅事情があった。四合院の連なるブロックの閉鎖空間は高層ビルに開放されてそこでの事情となったと考えると、ごみ処理、水道、電気と文明度が上がったであろう。そうなって、それは2000年代初頭に改革開放経済政策が変化して、WTO加盟の実現から、中国は市場経済競争に躍進するようになる。1985年当時から、それでもまだ、国内の様子がかわったといえないような、旧態依然のこともあった。それが地方と中央の格差であった。北京を見続けていたことから、2002年からは南京を見ることになる。上海から江蘇省を通る高速道の建設に、列車の確実な路線に、時間の短縮を高速バス開通によって実現したころで、高速鉄道はまだそれよりも後のこと、その高速道のパーキングが未だ休息地に整備され始めたころ、その印象はいつまでも変わらない中国の3つの課題として残った、常に衛生管理のことにあった。とてもサービスエリアにならない、パーキングとしても、かわらぬトイレ事情だった。この思い出に、高速バス利用はすぐにも、電車に変わることになるのは、長距離バス乗り場の降車が不便であった。新幹線をモデルにした、乗ってみると、近鉄特急の車両のような、高速鉄道の開通で、その様子の変化を時系列でみることになる。2010年あたりまでのことである。
友誼賓館の居室にいて停電があった。ホテルになっているが、電圧が一定しないとのことで、電気製品には高電圧変換だけでなく、電圧器が必要であった。こう書いて思い出していくと懐かしい。それは朝になるとドアの前に魔法瓶が2本、熱湯を入れて置いてあるという生活だった。前の晩に、カラ瓶を出しておかなければならない。水道水が飲めない頃だった。それが、いまはペットボトルか浄水装置かなにかで硬水を飲めるようにしている。そのころに、電気が止まることはよくある話ではあった。ホテルでは、めったとなかったから、そのときもすぐに回復した。そして思ったのである。首都に滞在していて、この国の将来を思えば、電気と、物流と、衛生の3つが安定することだ、と。大げさに思っていたわけではなくて、日常生活から素朴に思って、そう考えてしまう立場を与えられていた。1984年、いまから35年もさかのぼるから、そういう待遇で偉そうなことであった。しかし、いま、そのころを思い合わせていると、世代がかわってしまって、ホテルの居住区も周辺の状況にも開発が進められて想像もつかないくらいに変わってしまっているので、信じられないような昔語りとなってしまう。さて、その3つのうちの、一番遅れていた、遅れているのが衛生についてであるということが、このところのコロナウイルスによる病毒の感染で、明らかになった。3つのうちでもっとも進んだのは道路整備、高速網の構築と、主産業ともなったモータリゼーションの結果で、これは輸送力を見ることになるが、都市と地方間の物流が経済発展を大きく促してきた。電力は供給の面では石化燃料による火力発電が公害を引き起こしながらも、必要量にくわえて安定してきているようでもある。もう一つの衛生については民度の向上がかかわって、経済が変化するにつれて、豊かさに比例して暮らしの中で改善されてきた住宅事情があった。四合院の連なるブロックの閉鎖空間は高層ビルに開放されてそこでの事情となったと考えると、ごみ処理、水道、電気と文明度が上がったであろう。そうなって、それは2000年代初頭に改革開放経済政策が変化して、WTO加盟の実現から、中国は市場経済競争に躍進するようになる。1985年当時から、それでもまだ、国内の様子がかわったといえないような、旧態依然のこともあった。それが地方と中央の格差であった。北京を見続けていたことから、2002年からは南京を見ることになる。上海から江蘇省を通る高速道の建設に、列車の確実な路線に、時間の短縮を高速バス開通によって実現したころで、高速鉄道はまだそれよりも後のこと、その高速道のパーキングが未だ休息地に整備され始めたころ、その印象はいつまでも変わらない中国の3つの課題として残った、常に衛生管理のことにあった。とてもサービスエリアにならない、パーキングとしても、かわらぬトイレ事情だった。この思い出に、高速バス利用はすぐにも、電車に変わることになるのは、長距離バス乗り場の降車が不便であった。新幹線をモデルにした、乗ってみると、近鉄特急の車両のような、高速鉄道の開通で、その様子の変化を時系列でみることになる。2010年あたりまでのことである。