リマインダーが告げる。
1978年にわたしに始まった日本語教育はその後1979年からあらたな展開を遂げる。大阪への日本語教育は交換教員で北京語言学院の専家となった、派遣された1984年まで続いた。その一方での本務校となった愛知大学では実質的に1979年12月中国研修生として4名が来日することになった。助手になってさまざま学内用務に携わることであった。研究資料室の管理に購入図書や交換紀要の整理、文学会の事務などである。その部屋に閉じこもっての研究であったのであるが、それに研修留学生の授業が加わることになって、その部屋の読書机または図書館会議室などに出向いて日本語教育をした。
こうした1年の期間である。これが長いか、短いか、迎えた側と派遣した側の思惑と、実際に見えた研修生の思いが交錯して、さまざま影響が出る。しかし、これはその後1年ごとに日本語教師、派遣者は入れ替わって実現して、大事業となった。わたしが行ったことは成果があったと見えて、続いていくことになる。これが、日本語教育を大阪から豊橋へと運ぶという使命の実現である。
それは当初、留学生である進修生という触れ込みが、日本語教師の研修生に変わった経緯があった。大学が用意したプログラムは大学院の日本語専攻の学生の日本での学習であった。そのような交渉で進められるうちに奨学金支給と宿舎を用意する内容に中国教育部が大学日本語教師を派遣すると言ってきたのである。プログラムそのものは変えなくてよいということで、受け入れをすることにして、日本語専攻大学院生は中国人大学教師となった。大学は北京語言学院、大連外国語学院、上海外国語学院、東北師範大学であった。
わたしは現役日本語教師に日本語を教えることになって、派遣されてくる大学院学生でもおなじく日本語を練習すればよいと考えていたのであるが、すぐにも日本語学習に日本語研究を加えなければならないと気づいた。これは留学生委員会の要請もあったと記憶する。プログラムには科目を並べ日本事情をも組み込み、文化学習には研修旅行を入れていたので観光よろしく、それぞれで手分けしての担当があった。授業はそれなりにすすめて、1年のプログラムは地域との交流、大学同窓会と連絡、その他生活係の面倒見と、忙しいこと限りないところに、研究の手ほどきをすることにもなった。
その内容は授業中で受け付けるには時間の制約があるので、年間プログラムにほどなくして、質問時間を設けることにして別枠で行った。傍目で見て相当な負担を背負っていたらしく、若手の中国語教員のスタッフからこれではわたしが持たないので何とかすべきであるとの注意が委員会に出されたほどである。何しろ資料を示さなければならない、それにはコピーを使うか、青焼きで4部以上は作る、その資料は少なくない、その上質問は一人1時間として延べ4時間というところ、連続して行えば面談の疲労困憊は並大抵ではない。なぜかというと、日本語の発想にない日本語への質問攻めにあうから、あたまのなかをめぐるのは、それをまた説明するための、外国人用の日本語のことばがないということなのである。
休憩時間を設けて時間を組んでも、その30分ぐらいの時間を延長して答えることはしょっちゅうであったから、4人を終えて6時間からとなると、つねに脳が一日をおわるころには真っ白になったようであった。このことはのちのち、大平学校で修了のためのレポートを書く指導に当たった担当者の苦労話を伝え聞くことになるが、そのようなものである。こうするうちにレポートを書いてもらって、研修報告の論文が出来上がって一つの目的は果たされたのである。このようにして日本語、日本文化の1年研修プログラムは日文研生のひな形として外にも聞こえることになる。
日本語教育私史準備
2013-11-04 08:41:59 | 日本語教育
国語国文学の助手に赴任予定であったのでその宿題というようなことで日本語教育の命が下ったのは外大留別に時間講師をしていたことからだろうが、中国の大学から研修生を招いて日本語を学習するために留学させようということで、その1年用の留学プログラムを作るということであった。それは当時の1970年代のおわりころにあって中央ならいざ知らず地方にあっては誰にも成し得ないことであったろう。日本語教育というその内容すら一般にはおぼつかないようなころのことで、その1年の教育内容を作ったのは留学生日本語教育の経験が始まっていたからであった。
大阪から名古屋、その東にある豊橋の地に赴任と同時に日本語教育を運んだといってよい。大学の中国留学生準備委員会は、主要メンバに中日大辞典編纂の主筆、中国東亜同文書院の引き揚げ学生だったかの法学部教授、中国文学の教授、万葉文学の教授、そして若手からは中国語、中国文学、そしてわたしなど7人であった。中国の文部省にあたる教育部に申し入れて研修生を4名、豊橋の地で1年間滞在するのに奨学金、宿舎、その世話とプログラムだけではない、生活支援の諸々は、それを私大がやるというのは大変なことであった。宿舎をとってみただけで教員用住宅をあてがう構想だった。
1979年の日本経済は経済大国となる前のそれほどではないころだ、地方にあったからこそ、できることでもあったろう。若手メンバーは世話係とかをも仰せつかっていたので宿舎内のカーテンから厨房用品までを気遣った。わたしはと言えば、大阪に日本語教育で週一の出講をしながら進めていた1年留学の日本語教育のプログラムは日本事情を加えてその担当でもめていた。なぜなら日本語に関するカリキュラムはわたしのほかに若手教員で行っていくにしても、日本事情の担当がすんなりとは決まらない。日本語教育に対立意見があったらしいのである
あとで分かったのが、わたしの組むような日本語教育はそんなものでないと思っていた方がいて、その日本事情を担当するとかで物議があって、それは戦時中の中国滞在経験の日本語教育のイメージであったらしいが、大阪仕込みの言語教育はかなり冷たくみられていたらしい、ということが、後々まで影響する。そのシステムの考え方は現場にいるわたしに任せようということではあったらしいが、委員会内には根強く対立が残ってしまうことになる。わたしを推した万葉学教授には随分と助けてもらっていたことである。結果としては、のちのちの留学生別科創設につながるので何も問題はないプログラムのカリキュラムだったのである。
こうして辞典編纂事業の後継は留学生交流の受け入れ事業へと展開をしていく。このときにはっきりといわれたことに、中国では利用するということがあって、わたしは日本語教育で利用されるということであるので、面と向かって、おまえを利用するといわれたことであった。面子というようなことならばわからないでないが、そのときは何を言われたかわからなかったので、内心は利用されないで成果を挙げようと思っていたりもした。その後、中国に30数回にもなる講義経験を持つので、出張するたび、その中国でいう利用という言葉がわかってきたが、結局、日本人のわたしには異文化接触の場面が多くあっても利用するということはないという思いで、利用されるということもなかったのである。
日本語教育史私 ことはじめ
2013-11-02 23:28:06 | 日本語教育
国語国文学の助手になった、と言う駆け出しのころ、1979年に豊橋へ赴任したわたしには、そこから大阪へ日本語を教えに行くことがしばらく続いた。新幹線通勤でそれが5年続く、非常勤出講となるわけで、出す方も受け入れる方もいろいろと、よく許してもらったものだと思う。もちろん国立大の通勤予算にはそれがなかったのを、何かと理由をつけてもらって2年目からはいただくことになる。例外的措置のはしりで、いまからすればそれは遠隔通勤のパイオニアであったのであること思う。
助手になる前から日本語教育についての使命があったのである。日本語教育を初めて1年のこと、そのあいだに日本語教育プログラムを作るための報告を作ってほしいというので、赴任校からの宿題のようになった。大阪で教え始めたのはさきにも記したように、文型文法の科目と語彙作文の科目とで、かたやオーラルアプローチ、かたや書きことばの練習を加えるのは大変なことであった、と最初は思っていたが、実際にはカリキュラムのうちの一つであって、科目連携にあるチームティーチングであったからそこをのみこめばできることであると気づいた。
それで語彙作文のためには全体の日本語学習を見渡すようなことで何とか教案を作っていた。いまでも覚えているのが東南アジアの学生が、フイリピンだったか、留学のため渡航船に乗って不安がいっぱいだとの思いを綴ったものや、シャワーとちがって風呂の経験を記したものなど、材料にうまいなと感心させられていた。クラスは7人サイズで、文字練習に書き取り帳を使い、ほかに漢字科目があったので漢字を欠くことから始めていた。かれらは、きょうも漢字を10個食べた、消化不良になるだろうと言ってはばからなかった。
1年目で後期のセメスター、それは9月入学であるから半年のあいだのことである、そのときに中国からの留学生が来ているというので、相談を受けた。1978年のこと、4名ほどいたようだが、そのうちの3名に文学を教えてはどうかと声がかかった。暮れから春にかけての集中で授業をするような科目だった。研究留学生の日本語力をわかり始めていたので、文学の話をするのはどういうことかと応じたら、それは中国人留学生の希望で漢字圏からの学習者として文学の講義をしても間に合うだろうということであった。日本文学史の高校生用の副読本を探して行ったようなことであったが、よく勉強をしていた。日本語が話せたので、文学の理解にすすめることができた。
なにしろ、表向きは国交のない国で、友好条約発効前のことである。そのころに日本に来た中国政府派遣の留学生はほかの国費留学生とは違った雰囲気を持っていたので、わたしには得難い経験となった。70年代の中国社会がどうであったかを思えば、その留学生たちの思いがどんなであったかを想像することは難しい。教えながらその思いをわたしが思い知らされることが多かった。普通のファッションであると言えばそれはそうだが、白のワイシャツの下に色柄模様のあるTシャツを着込んで、そう見れば下にして着ているようだと見えるようなことでもそのときの時代からすれば異様だったのである。思い出して、その後、国に帰った彼らの行く末をくわしくきくわけではないが、わたしにはすぐにも同様の経験がその1年後に始まることになる。
1979年10月に中国からの留学生を迎える予定のプログラムを豊橋で作ることになる。4月には既に提出していた赴任前のさきの宿題をすぐにも採用された。大学の校是は中国との交流である。それまでに積み重ねた辞典編纂事業はひとまずきりを遂げるので、その次に大学が考える交流は日本語教育を入れて中国の大学から留学生を招こうということであった。中国留学生委員会のメンバーになったわたしは、赴任地でいきなり大学事業の中枢にかかわることになる。それから10年余にわたってこのプログラムが継続し、中国天津の南開大学だけであったのが、それはつぎつぎと交流提携校の拡大につながり、留学生別科を生み出し、さらには中国の学部の開設にまで影響をするようになる。
日本語教育史私
2013-10-30 22:12:54 | 日本語教育
日本語教育に携わったのはそのすすめがあったからである。大学で日本語を教えるというチャレンジは研究所の日本語教育センタの研究員に間に合わなかったためであるといまにしてわかる。いくらかの日本語教育があったというと、思い出すことがある。それまでも学生アルバイトで御多分にもれず家庭教師などをしていてその変わり種には小学5年生に日本語を教えるというのがあった。
それは海外から帰国した子女に日本語で遊んでほしいとの話で、その向かい側の家で受験生に教えていたことが伝わって、小5生は10年をサンサルバドルで過ごしてきた男の子であった。一計を案じて、ろうそくの科学、坊ちゃんなどを読むようなことをして、日本語を教えていたことがある。家庭教師の方は同志社香里受験に合格して、その向かい側の小5生の日本語教師も2年して中学進学で終わった。
博士後期の途中の2年の時の就活から、一念発起して、それから日本語教師研修を始めたり、その当時としては大変なことが専門の一つに加わったとは思っていなかったが、国語学の研究会を通じて日本語の研究が国語学研究から進めて始まっていたりして、結果として満期退学時に日本語教育のその職を得ることになるのは、そのまま次の赴任待ちをすることがもったいないというようなことであった。いわゆる履歴つなぎである。
大学院の後は仏教研究所の研究員で肩書きを作り、途中就活での研究職を逃していたわたしが、名古屋から60キロほど東にある愛知大学の国語国文学の教員になって、助手で赴任したのは1979年のこと、1978年に博士後期を満期終了して1年を待ってからのことだった。このときにすでに、それまでの日本語教育の経験はこの新天地で活かされることになる使命ができていた。それは何かというと、大学の赴任地で日本語教育がある、新しく始めるというようなことであった。
大阪上本町に校舎があり、通称、上六からあるいてそこにあったのは大学が移転する前の木造の建物で、その留学生別科の教室で日本語を教えたことは知る人が聞けばその地のこと知っているということで驚くような、その時代のことである。そこでは日本語教育の西の雄としての雰囲気が醸しだされていた。それからすぐに箕面市に校地が移転するのでまたそれはそれで山の上の学校として燦然としたものた。
教科書の一つに、JFTがあり、くわえて、Biginnersが姉妹書として出版されるが、その編集の方々、吉田先生、奥西先生、倉谷先生そして小林先生が、その上八に集まっていて、それこそ熱気そのものであった。筑波の中級日本語表現文型の教科書を編集した原形もそこでの教科書にあり、その編集の寺村先生もまだ外国語大学にいたのである。思い出せば、まだ数名の日本語教育ののちの大家となられた方ばかりである。
そこで面接を受けて、めでたく日本語科目の文型を教える。文法にくわえた、さらに、新しく作文科目を作るのでそれを担当するということだった。これは誰もやったことがないというので、何をやってもいいということだったが困った。文型帖があり、テキストがあり、練習ノートがあるが、作文用のモデルはないのである。どうしたものか。中級の文型のプリントももらっていたりして、それは貴重なものだと後で思い知るが、とにかく始まった。
その面接のことを少し書くと、それはまた顔が向いているというような話で、実はそれまでに、手紙文を書けというテストを受けていて、当時のことである、万年筆を用い書式を整え文体に配慮して面接に出かけることを書いたような記憶がある。また、あとで聞いたところでは東京弁もさることながら、敬語が使えるということが面接での判定であったようである。
1978年にわたしに始まった日本語教育はその後1979年からあらたな展開を遂げる。大阪への日本語教育は交換教員で北京語言学院の専家となった、派遣された1984年まで続いた。その一方での本務校となった愛知大学では実質的に1979年12月中国研修生として4名が来日することになった。助手になってさまざま学内用務に携わることであった。研究資料室の管理に購入図書や交換紀要の整理、文学会の事務などである。その部屋に閉じこもっての研究であったのであるが、それに研修留学生の授業が加わることになって、その部屋の読書机または図書館会議室などに出向いて日本語教育をした。
こうした1年の期間である。これが長いか、短いか、迎えた側と派遣した側の思惑と、実際に見えた研修生の思いが交錯して、さまざま影響が出る。しかし、これはその後1年ごとに日本語教師、派遣者は入れ替わって実現して、大事業となった。わたしが行ったことは成果があったと見えて、続いていくことになる。これが、日本語教育を大阪から豊橋へと運ぶという使命の実現である。
それは当初、留学生である進修生という触れ込みが、日本語教師の研修生に変わった経緯があった。大学が用意したプログラムは大学院の日本語専攻の学生の日本での学習であった。そのような交渉で進められるうちに奨学金支給と宿舎を用意する内容に中国教育部が大学日本語教師を派遣すると言ってきたのである。プログラムそのものは変えなくてよいということで、受け入れをすることにして、日本語専攻大学院生は中国人大学教師となった。大学は北京語言学院、大連外国語学院、上海外国語学院、東北師範大学であった。
わたしは現役日本語教師に日本語を教えることになって、派遣されてくる大学院学生でもおなじく日本語を練習すればよいと考えていたのであるが、すぐにも日本語学習に日本語研究を加えなければならないと気づいた。これは留学生委員会の要請もあったと記憶する。プログラムには科目を並べ日本事情をも組み込み、文化学習には研修旅行を入れていたので観光よろしく、それぞれで手分けしての担当があった。授業はそれなりにすすめて、1年のプログラムは地域との交流、大学同窓会と連絡、その他生活係の面倒見と、忙しいこと限りないところに、研究の手ほどきをすることにもなった。
その内容は授業中で受け付けるには時間の制約があるので、年間プログラムにほどなくして、質問時間を設けることにして別枠で行った。傍目で見て相当な負担を背負っていたらしく、若手の中国語教員のスタッフからこれではわたしが持たないので何とかすべきであるとの注意が委員会に出されたほどである。何しろ資料を示さなければならない、それにはコピーを使うか、青焼きで4部以上は作る、その資料は少なくない、その上質問は一人1時間として延べ4時間というところ、連続して行えば面談の疲労困憊は並大抵ではない。なぜかというと、日本語の発想にない日本語への質問攻めにあうから、あたまのなかをめぐるのは、それをまた説明するための、外国人用の日本語のことばがないということなのである。
休憩時間を設けて時間を組んでも、その30分ぐらいの時間を延長して答えることはしょっちゅうであったから、4人を終えて6時間からとなると、つねに脳が一日をおわるころには真っ白になったようであった。このことはのちのち、大平学校で修了のためのレポートを書く指導に当たった担当者の苦労話を伝え聞くことになるが、そのようなものである。こうするうちにレポートを書いてもらって、研修報告の論文が出来上がって一つの目的は果たされたのである。このようにして日本語、日本文化の1年研修プログラムは日文研生のひな形として外にも聞こえることになる。
日本語教育私史準備
2013-11-04 08:41:59 | 日本語教育
国語国文学の助手に赴任予定であったのでその宿題というようなことで日本語教育の命が下ったのは外大留別に時間講師をしていたことからだろうが、中国の大学から研修生を招いて日本語を学習するために留学させようということで、その1年用の留学プログラムを作るということであった。それは当時の1970年代のおわりころにあって中央ならいざ知らず地方にあっては誰にも成し得ないことであったろう。日本語教育というその内容すら一般にはおぼつかないようなころのことで、その1年の教育内容を作ったのは留学生日本語教育の経験が始まっていたからであった。
大阪から名古屋、その東にある豊橋の地に赴任と同時に日本語教育を運んだといってよい。大学の中国留学生準備委員会は、主要メンバに中日大辞典編纂の主筆、中国東亜同文書院の引き揚げ学生だったかの法学部教授、中国文学の教授、万葉文学の教授、そして若手からは中国語、中国文学、そしてわたしなど7人であった。中国の文部省にあたる教育部に申し入れて研修生を4名、豊橋の地で1年間滞在するのに奨学金、宿舎、その世話とプログラムだけではない、生活支援の諸々は、それを私大がやるというのは大変なことであった。宿舎をとってみただけで教員用住宅をあてがう構想だった。
1979年の日本経済は経済大国となる前のそれほどではないころだ、地方にあったからこそ、できることでもあったろう。若手メンバーは世話係とかをも仰せつかっていたので宿舎内のカーテンから厨房用品までを気遣った。わたしはと言えば、大阪に日本語教育で週一の出講をしながら進めていた1年留学の日本語教育のプログラムは日本事情を加えてその担当でもめていた。なぜなら日本語に関するカリキュラムはわたしのほかに若手教員で行っていくにしても、日本事情の担当がすんなりとは決まらない。日本語教育に対立意見があったらしいのである
あとで分かったのが、わたしの組むような日本語教育はそんなものでないと思っていた方がいて、その日本事情を担当するとかで物議があって、それは戦時中の中国滞在経験の日本語教育のイメージであったらしいが、大阪仕込みの言語教育はかなり冷たくみられていたらしい、ということが、後々まで影響する。そのシステムの考え方は現場にいるわたしに任せようということではあったらしいが、委員会内には根強く対立が残ってしまうことになる。わたしを推した万葉学教授には随分と助けてもらっていたことである。結果としては、のちのちの留学生別科創設につながるので何も問題はないプログラムのカリキュラムだったのである。
こうして辞典編纂事業の後継は留学生交流の受け入れ事業へと展開をしていく。このときにはっきりといわれたことに、中国では利用するということがあって、わたしは日本語教育で利用されるということであるので、面と向かって、おまえを利用するといわれたことであった。面子というようなことならばわからないでないが、そのときは何を言われたかわからなかったので、内心は利用されないで成果を挙げようと思っていたりもした。その後、中国に30数回にもなる講義経験を持つので、出張するたび、その中国でいう利用という言葉がわかってきたが、結局、日本人のわたしには異文化接触の場面が多くあっても利用するということはないという思いで、利用されるということもなかったのである。
日本語教育史私 ことはじめ
2013-11-02 23:28:06 | 日本語教育
国語国文学の助手になった、と言う駆け出しのころ、1979年に豊橋へ赴任したわたしには、そこから大阪へ日本語を教えに行くことがしばらく続いた。新幹線通勤でそれが5年続く、非常勤出講となるわけで、出す方も受け入れる方もいろいろと、よく許してもらったものだと思う。もちろん国立大の通勤予算にはそれがなかったのを、何かと理由をつけてもらって2年目からはいただくことになる。例外的措置のはしりで、いまからすればそれは遠隔通勤のパイオニアであったのであること思う。
助手になる前から日本語教育についての使命があったのである。日本語教育を初めて1年のこと、そのあいだに日本語教育プログラムを作るための報告を作ってほしいというので、赴任校からの宿題のようになった。大阪で教え始めたのはさきにも記したように、文型文法の科目と語彙作文の科目とで、かたやオーラルアプローチ、かたや書きことばの練習を加えるのは大変なことであった、と最初は思っていたが、実際にはカリキュラムのうちの一つであって、科目連携にあるチームティーチングであったからそこをのみこめばできることであると気づいた。
それで語彙作文のためには全体の日本語学習を見渡すようなことで何とか教案を作っていた。いまでも覚えているのが東南アジアの学生が、フイリピンだったか、留学のため渡航船に乗って不安がいっぱいだとの思いを綴ったものや、シャワーとちがって風呂の経験を記したものなど、材料にうまいなと感心させられていた。クラスは7人サイズで、文字練習に書き取り帳を使い、ほかに漢字科目があったので漢字を欠くことから始めていた。かれらは、きょうも漢字を10個食べた、消化不良になるだろうと言ってはばからなかった。
1年目で後期のセメスター、それは9月入学であるから半年のあいだのことである、そのときに中国からの留学生が来ているというので、相談を受けた。1978年のこと、4名ほどいたようだが、そのうちの3名に文学を教えてはどうかと声がかかった。暮れから春にかけての集中で授業をするような科目だった。研究留学生の日本語力をわかり始めていたので、文学の話をするのはどういうことかと応じたら、それは中国人留学生の希望で漢字圏からの学習者として文学の講義をしても間に合うだろうということであった。日本文学史の高校生用の副読本を探して行ったようなことであったが、よく勉強をしていた。日本語が話せたので、文学の理解にすすめることができた。
なにしろ、表向きは国交のない国で、友好条約発効前のことである。そのころに日本に来た中国政府派遣の留学生はほかの国費留学生とは違った雰囲気を持っていたので、わたしには得難い経験となった。70年代の中国社会がどうであったかを思えば、その留学生たちの思いがどんなであったかを想像することは難しい。教えながらその思いをわたしが思い知らされることが多かった。普通のファッションであると言えばそれはそうだが、白のワイシャツの下に色柄模様のあるTシャツを着込んで、そう見れば下にして着ているようだと見えるようなことでもそのときの時代からすれば異様だったのである。思い出して、その後、国に帰った彼らの行く末をくわしくきくわけではないが、わたしにはすぐにも同様の経験がその1年後に始まることになる。
1979年10月に中国からの留学生を迎える予定のプログラムを豊橋で作ることになる。4月には既に提出していた赴任前のさきの宿題をすぐにも採用された。大学の校是は中国との交流である。それまでに積み重ねた辞典編纂事業はひとまずきりを遂げるので、その次に大学が考える交流は日本語教育を入れて中国の大学から留学生を招こうということであった。中国留学生委員会のメンバーになったわたしは、赴任地でいきなり大学事業の中枢にかかわることになる。それから10年余にわたってこのプログラムが継続し、中国天津の南開大学だけであったのが、それはつぎつぎと交流提携校の拡大につながり、留学生別科を生み出し、さらには中国の学部の開設にまで影響をするようになる。
日本語教育史私
2013-10-30 22:12:54 | 日本語教育
日本語教育に携わったのはそのすすめがあったからである。大学で日本語を教えるというチャレンジは研究所の日本語教育センタの研究員に間に合わなかったためであるといまにしてわかる。いくらかの日本語教育があったというと、思い出すことがある。それまでも学生アルバイトで御多分にもれず家庭教師などをしていてその変わり種には小学5年生に日本語を教えるというのがあった。
それは海外から帰国した子女に日本語で遊んでほしいとの話で、その向かい側の家で受験生に教えていたことが伝わって、小5生は10年をサンサルバドルで過ごしてきた男の子であった。一計を案じて、ろうそくの科学、坊ちゃんなどを読むようなことをして、日本語を教えていたことがある。家庭教師の方は同志社香里受験に合格して、その向かい側の小5生の日本語教師も2年して中学進学で終わった。
博士後期の途中の2年の時の就活から、一念発起して、それから日本語教師研修を始めたり、その当時としては大変なことが専門の一つに加わったとは思っていなかったが、国語学の研究会を通じて日本語の研究が国語学研究から進めて始まっていたりして、結果として満期退学時に日本語教育のその職を得ることになるのは、そのまま次の赴任待ちをすることがもったいないというようなことであった。いわゆる履歴つなぎである。
大学院の後は仏教研究所の研究員で肩書きを作り、途中就活での研究職を逃していたわたしが、名古屋から60キロほど東にある愛知大学の国語国文学の教員になって、助手で赴任したのは1979年のこと、1978年に博士後期を満期終了して1年を待ってからのことだった。このときにすでに、それまでの日本語教育の経験はこの新天地で活かされることになる使命ができていた。それは何かというと、大学の赴任地で日本語教育がある、新しく始めるというようなことであった。
大阪上本町に校舎があり、通称、上六からあるいてそこにあったのは大学が移転する前の木造の建物で、その留学生別科の教室で日本語を教えたことは知る人が聞けばその地のこと知っているということで驚くような、その時代のことである。そこでは日本語教育の西の雄としての雰囲気が醸しだされていた。それからすぐに箕面市に校地が移転するのでまたそれはそれで山の上の学校として燦然としたものた。
教科書の一つに、JFTがあり、くわえて、Biginnersが姉妹書として出版されるが、その編集の方々、吉田先生、奥西先生、倉谷先生そして小林先生が、その上八に集まっていて、それこそ熱気そのものであった。筑波の中級日本語表現文型の教科書を編集した原形もそこでの教科書にあり、その編集の寺村先生もまだ外国語大学にいたのである。思い出せば、まだ数名の日本語教育ののちの大家となられた方ばかりである。
そこで面接を受けて、めでたく日本語科目の文型を教える。文法にくわえた、さらに、新しく作文科目を作るのでそれを担当するということだった。これは誰もやったことがないというので、何をやってもいいということだったが困った。文型帖があり、テキストがあり、練習ノートがあるが、作文用のモデルはないのである。どうしたものか。中級の文型のプリントももらっていたりして、それは貴重なものだと後で思い知るが、とにかく始まった。
その面接のことを少し書くと、それはまた顔が向いているというような話で、実はそれまでに、手紙文を書けというテストを受けていて、当時のことである、万年筆を用い書式を整え文体に配慮して面接に出かけることを書いたような記憶がある。また、あとで聞いたところでは東京弁もさることながら、敬語が使えるということが面接での判定であったようである。