正義は民主主義では人々の多数が考えることとなる。少数の意見尊重が言われて多数の考えることを変えることもある。民主主義には自由がともなうから多数と少数が半多数と半多数となって拮抗することもある。その正しさはその証によるから正しいことを認めるための説得が双方から行われる。その経過には権力が働くこともあり民衆の感情が動くこともある。正義に大義がある。正にも大にもあるのは義である。義を正しい道とする、義を道理とする、そこに道があり人の踏むべきものとなる。道理に条理を入れるとすじみちとなるので理と筋が義に認められるかどうかである。その義に犠牲がある。ときに義には、わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人 広辞苑 という意義を持つ。その義には神と倫理の違いを見せる。正義には人の道がある。すじみち、ことわり、その義をわたしたちは、自らの意見主張に重きおくことより、他から見てそうである、そのように望ましいこととして、捉えてきているのである。
義 ぎdikaiosynē theou; justitia Dei
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
義
ぎ
dikaiosynē theou; justitia Dei
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ユダヤ教,キリスト教においては「神の義」の意味で用いられる。この際,義は普通の倫理的な意味における「正義」とは異なり,唯一神の属性であり,それにのっとることこそ人間の義なる (正しき) 生活の規範とされた。旧約聖書では神の義は神ヤハウェの動的啓示的行為として現れ,しいたげられたユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し,律法を遵守するとき民が救われると考えられた (イザヤ書 45・8,51・5~7など) 。新約聖書における義の観念もユダヤ教の義の延長上にあるが,パウロにより徹底的に深化され,律法によらずキリストを信じることにより,恩恵的に与えられるものとされた (ローマ書4・11,13など) 。この信仰による義においては,人間の生は「義の武器として神にささげ」 (同6・13) られたものとみなされる。このように信仰によって義とされることを義認あるいは義化 dikaiosis,justificatioという。
義 ぎdikaiosynē theou; justitia Dei
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
義
ぎ
dikaiosynē theou; justitia Dei
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ユダヤ教,キリスト教においては「神の義」の意味で用いられる。この際,義は普通の倫理的な意味における「正義」とは異なり,唯一神の属性であり,それにのっとることこそ人間の義なる (正しき) 生活の規範とされた。旧約聖書では神の義は神ヤハウェの動的啓示的行為として現れ,しいたげられたユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し,律法を遵守するとき民が救われると考えられた (イザヤ書 45・8,51・5~7など) 。新約聖書における義の観念もユダヤ教の義の延長上にあるが,パウロにより徹底的に深化され,律法によらずキリストを信じることにより,恩恵的に与えられるものとされた (ローマ書4・11,13など) 。この信仰による義においては,人間の生は「義の武器として神にささげ」 (同6・13) られたものとみなされる。このように信仰によって義とされることを義認あるいは義化 dikaiosis,justificatioという。