せば―まし、―ましかば―まし、反実仮想という古語の例、この歌でよく知られたところだ。
春の心はのどけからまし、と業平が歌って、その返歌は、読み人がわからない。
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにか久しかるべき
散るから桜はいい、と言ったのでは、現状肯定のままであるが、のどけからまし、それには、ぴしゃりと感じさせたであろうか。
名にし負はばいざ言こと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
このように歌う平安の武人はその内面を言葉に託して想像を巡らせる。
そこには機知と諧謔があり、容貌魁偉と似もしないのは、平安人がもとめるみやびにあるようだ。
さて、この歌のやり取りには、反実と現実の妙味がある。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
この、いわば、反事実をとらえるには、目前の現実があることになる。
現実には何があるというのだろう、事実に反した想像は何があるのだろうか。
しかし、一方で返歌に見せるのは、
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
と、やり返す。
桜をめでるのも、うきよに咲き続けるのも、永遠なものはない、というのも、その通りである。
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
wakastream.jp/article/10000239WbxQ
散ればこそいとど桜はめでたけれ. うき世になにか久しかるべき. 散るからこそ桜は素晴らしいのだ。この憂いの多い世の中に何が久しくあるだろうか。 八十二 春の心は 昔
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
>昔、惟喬(これたか)親王という皇子がいた。山崎よりさらに遠くの水無瀬というところに離宮があり、毎年の桜の花盛りには離宮へ足を運んだ。そのとき右馬寮の長官であった人をいつも連れていた。
鷹狩りを熱心にすることもなく酒ばかり飲んで和歌に夢中になっていた。鷹狩りをする交野(かたの)の淀川べりの家である渚の院の桜はとくに風情があり美しい。その桜の木で馬を降り腰を下ろして、お供の者も含めたいろんな階級の人が歌を詠んだ。
歌はその中の一人が、右馬寮の長官が詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」を受けて詠んだ。
歌は散る桜をきっかけに、心を悩ませるつらい世の中に長くいたいというものは何もないと、無常で儚い人の世のもの悲しさを詠んでいる。
在原業平 千人万首
www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html
春. なぎさの院にて桜を見てよめる. 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53). 【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心 ... 【通釈】桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。 ...... 安倍清行への小町の返歌「おろかなる涙ぞ袖に…
> なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53)
【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。
【補記】「なぎさの院」は、いまの大阪府枚方市辺りにあった惟喬親王の別荘。遊猟地であった交野(かたの)に近い。伊勢物語八十二段には、業平が交野で狩のお供をした際、「狩はねむごろにもせで、酒をのみのみつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とあって、桜の木の下での酒宴で詠まれた歌となっている。うららかな春という季節――しかし、「春の心」は決してのどかではあり得ない。散り急ぐ桜の花に、心は常に急かされるから。桜など、いっそなければ…。歓楽に耽る中、<いまこの時>の過ぎ去る悲しみが、人々の胸を締めつける。
【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、金玉集、和漢朗詠集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、九品和歌、古来風躰抄
【主な派生歌】
春の心のどけしとても何かせむ絶えて桜のなき世なりせば(慈円[風雅])
いかならむたえて桜の世なりともあけぼのかすむ春の心は(藤原定家)
山里にたえて桜のなくはこそ花にみやこの春もしのばめ(藤原経高[新葉])
あくがれて花をやみましこの里にたえて桜のなきよなりせば(飛鳥井雅有)
よの中に絶えて春風なくもあれなふかでも花の香は匂ひけり(三条西実隆)
春といへどのどかならずも物ぞ思ふ絶えて桜のなきよなりとも(松永貞徳)
春の心はのどけからまし、と業平が歌って、その返歌は、読み人がわからない。
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにか久しかるべき
散るから桜はいい、と言ったのでは、現状肯定のままであるが、のどけからまし、それには、ぴしゃりと感じさせたであろうか。
名にし負はばいざ言こと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
このように歌う平安の武人はその内面を言葉に託して想像を巡らせる。
そこには機知と諧謔があり、容貌魁偉と似もしないのは、平安人がもとめるみやびにあるようだ。
さて、この歌のやり取りには、反実と現実の妙味がある。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
この、いわば、反事実をとらえるには、目前の現実があることになる。
現実には何があるというのだろう、事実に反した想像は何があるのだろうか。
しかし、一方で返歌に見せるのは、
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
と、やり返す。
桜をめでるのも、うきよに咲き続けるのも、永遠なものはない、というのも、その通りである。
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
wakastream.jp/article/10000239WbxQ
散ればこそいとど桜はめでたけれ. うき世になにか久しかるべき. 散るからこそ桜は素晴らしいのだ。この憂いの多い世の中に何が久しくあるだろうか。 八十二 春の心は 昔
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
>昔、惟喬(これたか)親王という皇子がいた。山崎よりさらに遠くの水無瀬というところに離宮があり、毎年の桜の花盛りには離宮へ足を運んだ。そのとき右馬寮の長官であった人をいつも連れていた。
鷹狩りを熱心にすることもなく酒ばかり飲んで和歌に夢中になっていた。鷹狩りをする交野(かたの)の淀川べりの家である渚の院の桜はとくに風情があり美しい。その桜の木で馬を降り腰を下ろして、お供の者も含めたいろんな階級の人が歌を詠んだ。
歌はその中の一人が、右馬寮の長官が詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」を受けて詠んだ。
歌は散る桜をきっかけに、心を悩ませるつらい世の中に長くいたいというものは何もないと、無常で儚い人の世のもの悲しさを詠んでいる。
在原業平 千人万首
www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html
春. なぎさの院にて桜を見てよめる. 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53). 【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心 ... 【通釈】桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。 ...... 安倍清行への小町の返歌「おろかなる涙ぞ袖に…
> なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53)
【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。
【補記】「なぎさの院」は、いまの大阪府枚方市辺りにあった惟喬親王の別荘。遊猟地であった交野(かたの)に近い。伊勢物語八十二段には、業平が交野で狩のお供をした際、「狩はねむごろにもせで、酒をのみのみつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とあって、桜の木の下での酒宴で詠まれた歌となっている。うららかな春という季節――しかし、「春の心」は決してのどかではあり得ない。散り急ぐ桜の花に、心は常に急かされるから。桜など、いっそなければ…。歓楽に耽る中、<いまこの時>の過ぎ去る悲しみが、人々の胸を締めつける。
【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、金玉集、和漢朗詠集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、九品和歌、古来風躰抄
【主な派生歌】
春の心のどけしとても何かせむ絶えて桜のなき世なりせば(慈円[風雅])
いかならむたえて桜の世なりともあけぼのかすむ春の心は(藤原定家)
山里にたえて桜のなくはこそ花にみやこの春もしのばめ(藤原経高[新葉])
あくがれて花をやみましこの里にたえて桜のなきよなりせば(飛鳥井雅有)
よの中に絶えて春風なくもあれなふかでも花の香は匂ひけり(三条西実隆)
春といへどのどかならずも物ぞ思ふ絶えて桜のなきよなりとも(松永貞徳)