現代日本語百科   けふも  お元気ですか

gooブログはじめました!日本語百科です。
現代日本語百科 ⓒ2013gooksky

日本文化論 ことはじめ11

2016-03-11 | 日本文化論
文化論の文化の定義が捉えられて、文化の価値が文化そのものをあらわす議論となり、文化の相対性が明らかになるにつれ、その文化特有の議論はステレオタイプに帰せられ、文化を語ることは文化そのものの実践をさすようになる。言語教育に言語と文化が議論されると、それは日本語とその文化にも影響し、文化そのものを語ることが変容する。そこには文化講座の意味をもってカルチャーセンタの時代がある。生涯教育に連動するものであったが、文化は街へと繰り出し、サブカルチャーが盛んとなる。


 日本文化論 ことはじめ4 2016-03-04 16:12:29 | 日本文化論
  ~
 日本文化論 ことはじめ10 2016-03-10 09:01:32 | 日本文化論


日本文化論を日本文化史にとらえ、日本文化の典型を日本精神に求める説明がある。その日本精神を文化議論とするのは、おおむね、日本文化論を1930年代、またそれ以前にまでさか上らせることになる。すなわち日本的精神、日本的霊性、日本民族精神である。雑駁に言えば、和のこと、大和魂のこと、武士道である。それについてさらに、あらかたを言うと、礼儀正しさ、相手への思いやり、争いを好むことなく折り合いを付ける、暮らしを勤勉さによって支える、国民として共有する価値観がある、といったようなことである。

文化、文明を近代以降に翻訳概念のひとつに、わたしたちのものの見方考え方に持ち込んだこともあって、文化そのものを日本思想で体現する近代化があった。欧化思想ともいうべく、その影響に進めた時代精神には、それまでと、それからでは、日本文化そのものが対比的に昇華する時代があった。国体という、宗教、教育、政治にあらわれた思想にも文化の具象性をもって日本民族が体験することになる。日本文化の議論はそのうちに、日本思想ともなってその捉え方が偏る、いまとなればそれを日本文化の特殊性として1980年代半ばに議論することがあった。

その議論は、日本文化の変容として、日本人論を分析していた。その文化の見方には1945年、戦争の終結によってもたらされた日本文化、日本経済のありようを視点にしている。それによってしばらく、日本文化の議論をおえば、そこに学ぶことがあったのであるが、以後の、それから30年間にグローバルによる、それこそ文化の変容と経済の変化が起こって、いまその議論は古典的でさえある。なにしろ夏目漱石の個人主義の講演、坂口安吾の堕落論、そこにベネディクトの菊と刀が議論の視点となる文化論であった。

しかし、高度経済成長を遂げてきた、第2次大戦の、戦後復興を説明する、あらたな日本精神の再発見の書であったと評価できる。その書のタイトルに述べるところ、目次にするところ、その時期区分の名称には文化史の議論を踏まえれば、文化のありようをよくとらえるものであった。すなわち、民族の自立と宥和を見ようとする、それまでの敗戦による自信喪失の日本に与える、よい議論となった。

日本思想、日本文化の講座は久しくなかった。それは1990年代にまで及んだ。いまもなお、その状況は変わりないかもしれない。日本を語ることをしなかった。ところが、日本人論となると、日本の民族を議論することの、日本民族のルーツを探ることに困難があるかのように行われなかった。敗戦による精神論が失われたことによるようである。日本文化、日本文明はその拠るべきを見失っていた。教育の場で文化文明のその内容を語ることが行われない時期と状況を抱えていた。

日本文化論の変容とはその説明に従えば日本文化の特殊性の認識にある。日本文化の特殊性は日本が特殊であると語られ続けていたことへの内実を明らかにしようとするもので、それは日本人とはなにかを問い続けることへの答え探しでもある。敗戦を契機に語ることが可能となった議論である。その特殊性は日本の家族観にある。いわば家族国家観と呼ぶべきものである。

個人主義という呼称も漱石による見方であり、それにはおのれの物言いを持てと天衣無縫の漱石ならではの考え方と、状況に現れた、純粋無垢であるところへの回帰を唱える、日本人の姿を知るには堕落する思想のありようがあてはめられるのは、そこに著者が視点を据えて家族同胞の国家観を見直せと言うことであった。日本人は疲弊し自らを見失い経済にに困窮していたのであるが、そこに戦後があった。

日本文化論は失意のどん底から這い上がる日本を状況的にとらえる。そこには経済力と技術力の新生日本があった。戦後ではなくなったと経白書が宣言し、それに呼応するかのように経済進出が太平洋の向こうを脅かし、ふたたび日本とは何かが議論されたのが、貿易摩擦であった。そして菊と刀が再び読まれた。日本文化の解明であるかに聞こえてきた。

太平洋戦争で課せられた日本解明が、米国にとっての作戦であり敵国の分析であったが、それを敗戦後に公開した文書をもって日本研究の書と位置付けられた。翻訳されてしばらくは日本の情勢には関与しなかったが、文化論としては文化人類学にとらえられた。すべてがあべこべだと書く章の言及が特徴的であった。あらためて義理と恩義、恥について、日本がどうとらえられているかの論議が起こった。

日本文化論の変容は、1955年の、もはや戦後ではない、経済白書に言う経済状況を画期としている。白書による文言が現実の日本の姿をどれくらい反映していたかは検証のいるところであるが、この物言いが戦後10年の節目を作ったのである。それはまた文化論の変容を時期区分することにつながったかにみえる。歴史区分を施すことは画期のできごとをどうとらえるかにあり、著者の炯眼による。

しかしその区分名には否定的特殊性の認識1945~54年、歴史的相対性の認識1955~63年、肯定的特殊性の認識前期1964~76年、後期1977~83年、という。そして、特殊性から普遍性へ、となって記述は次世代にゆだねる。ここに見える用語は特殊性から始まって普遍性へ至る。著作の副題にある、戦後日本の文化とアイデンティティーは、その証明のプロセスにあることを示している。

青木保『「日本文化論」の変容 戦後日本の文化とアイデンティティー』中央公論社1990年

青木保氏の著作がどういう経緯で語られたかを知るのは興味深いことである。日本文化の変容を日本人論のありようを見て、日本文化としたところにその動機がありそうである。さらにその探求範囲はいわゆる学術論文だけではない評論雑誌にも及ぶことをあえて行って広くその議論を作り上げている。アイデンティティを明らかにするためは日本人、日本民族の反省を視点にしたのは首肯されるところである。

特殊性は家族国家観、相対性は特殊論に対する文明優位論、そして特殊性が普遍性に至る日本文化の規定である。菊と刀が象徴するものはタテ社会の捉え方、恥の文化、甘えの構造を見て、日本らしさを見ようとする。日本型経営といわれた集団と序列は肯定的ですらある。その意思決定にはまるで経済大国への歩みがあったかのようであった。バブル経済へと突入する手前で、この議論の時期となる。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。