高村光太郎 冬が来た
きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹の木も箒(ほうき)になった
きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
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>20061201落葉盛ん
カテゴリ:思い遥かに
12月はグレゴリオ暦で年の第12の月、最後の月に当たるとはウイキペディアの解説。
日本では、旧暦12月を師走、しわすと呼び、現在では新暦12月の別名としても用いる、とあって、旧暦と新暦と、そして別名と。
英語での月名、Decemberは、10番目の月の意味だそうで、実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、そのため年末の2月は日数が少ない、3月から数えて10番目ということになるそうだ。
師走は、となると、語源説として、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する、師馳す、しはすがあると、語源由来辞典に載せる。
この説は、平安末期の色葉字類抄に、しはすの注として説明され、師馳す説は民間語源で、この説を元に師走の字が当てられたと考えられる、とも付け加えている。
それではなにかとなると、わからないということだが、し終わる意味とか、四季が終わるとか、はつの意味に果てる、尽きるを当てようとする。
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落ち葉が、道路にはない
2006年12月01日06:52
師走だ、この文字使いのために、そうしなければならないような
いや、これは師は師でも檀家がいうお師匠で、オッスまたは法師であって、との解説がなされる
太平の世に生まれたフレーズはどうなってきたか、多くは近代に定着した
朝の自転車が手袋とマフラーを離せない
ずいぶん寒くなった
道路の紅葉を枝から
ばっさりと切り落としていた
落葉の始まる前の刈り取りだ
しみ入る寒さになったのでかぜに気をつけよう
研究室で授業準備をしていたら
ゼミを決めましたと、聞いてくださいと
ワクワクのふわぁっ、感を話してくれた
それでいいのだよ
よし、これで悩みからも解放されて
コースにゴーゴー、まい進できる
がんばりたまえ
非積極的営業とは、うまく言うね
ここ連日のタイトルを見ていると
そうも思えない書き込みようだけれども
読む相手かぎられていないから、不特定多数営業だね
ゼミの話は日常性へと戻る、ゼミ学習だ
男女の異文化コミュニケーションについて、競合タイプと和合タイプを説明して、会話パターンの練習をした
謝罪を取り上げて、どういえば角が立たないか、本来日本語が最も得意するところであったはずだが、、異文化コミュニケーションの話題になるのは男女差の前提をつくるからだろう
したがって行く先は男女の会話行動パターンにおいて目線をそろえることになる
日本語だとここに会話で重要な敬語の問題が含められるので上下差を強調してそれを固定する方向になるが、それは敬語を使えたことで関係を維持するという、異文化コミュニケーションとは逆のやり取りをしてきた
相手が低く出ることでそれあわせてより低く出る、コミュニケーションを円滑にするために継続的に行うのはことばのキャッチボールだから、ぶっきらぼうな、つっけんどんに終わってしまってはならない
そうすると新たな地平が開かれるのはことばの上での対等の関係を強く求める男女の会話になって、これまでの亭主関白といった光景は通用しない