かつては大本営発表と大政翼賛会というメディアの操作と官製国民統合団体があったことが戦争を推進する組織的な活動とらえられた。軍事国家を実現していたようすである。大日本帝国が目指すのはアジアの覇権とエネルギー資源の獲得を目指した。軍備のための生存競争になる。そこに帝国臣民は国家戦略の兵力となった時代である。その戦争を停止したのは新型爆弾による、原子爆弾という、そのときには予想できない破壊力を持ったものであった。人類史上、前例を観ない、その後にふたたび、それを見ることのない爆撃であった。その爆弾を用い、70年を経て、核戦争という将来をすることは考えられないことであった。朝鮮半島に配備された核とその抑止の均衡は、その力の拮抗が最大の緊張を迎えることになった。核を用いる戦争が行われる恐怖が、イデオロギのバランスを実現してきたものを、それを破ろうとする思想が現れている。宗教の原理主義が紛争を起こして暴力はテロの繰り返しとなっている。その思想を追って、ここにあらわれた主張は輿論の理解するところではない。民主と戦うものは何か。
ウイキぺディアより
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近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動の結果、1940年(昭和15)10月12日に結成された。 翼賛会は経済新体制(統制会)、勤労新体制(大日本産業報国会)と並ぶ「高度国防国家体制」の政治的中心組織であり、大政翼賛運動の推進組織として位置づけられた。
1940年、結社を禁止されていた勤労国民党や立憲養正会等を除く保守政党から非合法の日本共産党を除く無産政党まですべての政党が自発的に解散し大政翼賛会に合流した。昭和研究会も大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し(貴族院ではもともと政党はなく院内会派が政党的存在であった)、また大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動はおこなえず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動をおこなった。これは、「勝ち馬に乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢をとったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。
「大政翼賛の歌」発表の式典。1940年12月16日
このように、大政翼賛会を中心に大東亜戦争(太平洋戦争)下での軍部の方針を追認し支える体制を翼賛体制という。1942年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466人(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381人が当選した。選挙資金は陸軍の機密費(臨時軍事費)から支出されており、陸軍の機密費(臨時軍事費)で当選した議員は、「臨軍代議士」と呼ばれた。
1942年(昭和17年)5月26日には傘下組織である日本文学報国会が結成。1942年6月23日には大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。1942年12月23日には大日本言論報国会が結成された。また、興亜総本部もつくられ、アジア主義団体の統制も行った。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
チュチェ思想
チュチェしそう
Chuchoe-sasang
朝鮮労働党および北朝鮮の指導指針とされる思想。マルクス・レーニン主義を朝鮮の現実に適用したものとされ,1966年以降,キム・イルソン (金日成) により唱えられた。「主体」とはキム・イルソンによれば「自国の革命と建設に対して主人らしい態度をとる」人間中心の考え方で,政治の自主,経済の自立,国防の自衛が強調された。一方で人間が主体的に生きるためには首領の懸命な指導が必要とされ,キム・イルソン個人崇拝とキム・ジョンイル (金正日) 後継体制を正当化するためのイデオロギー的基盤となっている。
世界大百科事典内のチュチェ思想の言及
【自力更生】より
…一般的には〈他人の力を借りず自体の力で困難から脱出し自立的に生きていくこと〉(《朝鮮語辞典》(平壌))だが,特に中ソ論争を背景として,〈自国の革命と建設は基本的に自国人民の力量と自国の富源によって進めるべきだ〉という立場を鮮明にしたもの。この考え方が70年代にいたりいっそう包括的なチュチェ(主体)思想に発展していく。ただし,社会主義国際分業内で特化することなく自力で重工業を含む民族的自立経済を創出すべきだとの考え方は,1956年段階ですでに定まっていた。…
【朝鮮民主主義人民共和国】より
…金日成は早くからソ連の経済協力姿勢に疑問を抱いており,中国と共通の批判の姿勢に立ちつつもソ連との国家関係は維持し,一方,中国の〈文化大革命〉とは一線を画して中ソ論争の国内波及を強く阻止したという。この間,50年代末以来政治の中枢を担ってきたのは朴金喆,李孝淳らのいわゆる甲山派(抗日パルチザン闘争の後期に北朝鮮北部の甲山郡と対岸中国領の長白県の根拠地で活動した人々)であったが,68年のプエブロ号事件の後,ベトナム支援とも関連する対米強硬路線・対南工作のゆきづまりのなかで甲山派は失脚し,70年代以降のチュチェ(主体)思想の時代へと推移していった。 チュチェ思想は67年から金日成が唱道したものとされ,その語義には変遷があるが,〈自力更生〉論の延長線上の対外的自主独立,大国主義・支配主義反対の側面とともに,革命の主人である人民大衆の自主的創造性の強調を特徴とし,現代を第三世界人民が世界史を切り拓くチュチェの時代ととらえて,非同盟諸国の民族革命に強い関心を示している。…
※「チュチェ思想」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
世界大百科事典 第2版の解説
チュチェしそう【チュチェ思想 Chuch‘e‐sasang】
金日成(きんにつせい)の名のもとに唱道されている朝鮮民主主義人民共和国の思想原理。自力更生論をいっそう包括的な哲学体系に発展させて,1960年代後半以降チュチェ(主体)思想と呼ぶようになった。当初は,〈思想における主体,政治における自主,経済における自立,国防における自衛〉(金日成,1965)というように,国際共産主義運動の多極化状況に対する独自の視点を強調する面が強く,マルクス=レーニン主義の一般的真理を自国の歴史的条件に創造的・自主的に適用する立場と説明されていた。