現代日本語「誤」百科 748 道理的に矛盾を感じる を、例題にしている。接尾の 的 について、似たような物事についていう、と解説している。道理 には似たようなものはない、道理は道理そのものであって、それに似たようなものがない、真理 にも真理的というのはない、というわけだろう。ではどういえばいいのか、それは、道理に矛盾がある、とすればよいのだろう。的の付き方には、この漢字の用法を日本的にしたところがあって、この日本的というのもいいのか悪いのか、その用法をたどれば、日本らしくしたというようだから、ほかの言い方にもなる。はやりの、僕的には云々、というとどうなのだろう。
語感として多くの場合には、僕的などといった言い方は成り立たないが、それが使われた様子には、自分はどうであるかと考えると、とか、自己を中心に考えると、とか、言いたいのだろうけれど、この的には本来の、的中のような意味合いがあるはずだから、婉曲に言うのでもない。それが流行語のようになるところで、いろいろとニュアンスを生み出したか。
辞書にこの用法の指摘がある。
>また最近、「わたし的には~」「ぼく的には~」という若い人が増えて批判の対象となった。これは「わたしは~」「ぼくは~」と直截に言うのを避けた言い方である。「わたしとしては~」「ぼくとしては~」とぼかした表現で、「個人的には~」「将来的には~」などと同じ用法と見てよい。
もともと辞書には、接尾的用法には、次のように説明している。
先と同じく、提供元:「デジタル大辞泉」。
>[接尾]
1 名詞に付いて、形容動詞の語幹をつくる。
㋐そのような性質をもったものの意を表す。「文学―表現」「詩―発想」
㋑それについての、その方面にかかわる、などの意を表す。「教育―見地」「政治―発言」「科学―方法」
㋒そのようなようすの、それらしい、などの意を表す。「大陸―風土」「平和―解決」「徹底―追求」
2 人名や人を表す語(また、その一部)に付いて、親しみや軽蔑(けいべつ)の気持ちを込めて、その人を呼ぶのに用いる。「取―(=下級の力士)」「泥―(=泥棒)」「幸―(=幸次郎)」
この㋑を解釈すればよいだろうか。道理的矛盾とすると㋐また㋒のように、微妙な意味を持つ。
道理的に矛盾を感じる
道理に矛盾を感じる
道理的矛盾を感じる
道理矛盾を感じる
このいずれも表現方法としてはちがった意味を持つことことになるので、道理的に矛盾があっても表現は成立するだろうか。
稲盛和夫の名言 厳選集
systemincome.com/main/kakugen/tag/稲盛和夫
>ものごとに筋が通っているか、すなわち道理に適っているかどうかを判断するためには、単に論理的に矛盾がないかということだけでなく、
語感として多くの場合には、僕的などといった言い方は成り立たないが、それが使われた様子には、自分はどうであるかと考えると、とか、自己を中心に考えると、とか、言いたいのだろうけれど、この的には本来の、的中のような意味合いがあるはずだから、婉曲に言うのでもない。それが流行語のようになるところで、いろいろとニュアンスを生み出したか。
辞書にこの用法の指摘がある。
>また最近、「わたし的には~」「ぼく的には~」という若い人が増えて批判の対象となった。これは「わたしは~」「ぼくは~」と直截に言うのを避けた言い方である。「わたしとしては~」「ぼくとしては~」とぼかした表現で、「個人的には~」「将来的には~」などと同じ用法と見てよい。
もともと辞書には、接尾的用法には、次のように説明している。
先と同じく、提供元:「デジタル大辞泉」。
>[接尾]
1 名詞に付いて、形容動詞の語幹をつくる。
㋐そのような性質をもったものの意を表す。「文学―表現」「詩―発想」
㋑それについての、その方面にかかわる、などの意を表す。「教育―見地」「政治―発言」「科学―方法」
㋒そのようなようすの、それらしい、などの意を表す。「大陸―風土」「平和―解決」「徹底―追求」
2 人名や人を表す語(また、その一部)に付いて、親しみや軽蔑(けいべつ)の気持ちを込めて、その人を呼ぶのに用いる。「取―(=下級の力士)」「泥―(=泥棒)」「幸―(=幸次郎)」
この㋑を解釈すればよいだろうか。道理的矛盾とすると㋐また㋒のように、微妙な意味を持つ。
道理的に矛盾を感じる
道理に矛盾を感じる
道理的矛盾を感じる
道理矛盾を感じる
このいずれも表現方法としてはちがった意味を持つことことになるので、道理的に矛盾があっても表現は成立するだろうか。
稲盛和夫の名言 厳選集
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>ものごとに筋が通っているか、すなわち道理に適っているかどうかを判断するためには、単に論理的に矛盾がないかということだけでなく、