述語と陳述 日本語の文法について その33 述語13
述語は動詞からなる。そう受け止めたか、日本語文法が英語を学び始めたその時期に述語という用語は述語動詞を意味していた。しかし日本語で述語と言えば論理学で、ある命題の主語について述べられる概念とある。文法学はその扱いを受けていたので、あらためて言えば、述語が述語であるのはなぜか。つまり日本語の述語とはなにか、と言うことである。
現代中国語で述語をどのようにとらえるか、文法用語に見ると中国語辞典には述語を、 谓语wèiyǔ 谓词 ピンインwèicí 语词 ピンインyǔcí 宾词 bīncí 述语 shùyǔとなる。主語に対する客語、主辞に対する賓辞であったのだから、文法的概念としてはそのそれぞれの文法理論によるところであろう。根据《现代汉语》的定义,汉语的体词包括名词,数词,量词;汉语的谓词包括动词和形容词。
日本語の述語もそうであるが、陳述を述語の働きとして認めることによって、文のまとまりとすることがある。ひところ陳述論争があって文の成立に述語がどうかかわるかを議論していた。
山田1908:一つの句とは統覚作用の一回の活動によりて組織せられたる思想の言語上の発表をいふ。
時枝1941:詞的対象を辞の表す主体的把握が包み、統一して表現が成立すると言うこと
山田文法は統覚作用をもって統合され言表されると文が成立し、その何かについて述べるという作用を陳述とした。時枝文法は文という統一体を成立させその契機となるのは主体による陳述であるとした。これは言語過程説の詞辞の統一体となる考え方とはことなる。ここに論争の端を発し、陳述が述語にあるか、どこにあるか、多くの論争がされている。それについて渡辺氏の議論が一つの解決を与えた。
渡辺1953,1971:詞と辞の区別を「素材表示の職能」と「関係表示の職能」とに分け、時枝文法の文末辞の統一作用の内容を叙述と陳述の職能に分けて文末辞の陳述の職能を述語全体に認めた。そうすることによって助動詞の相互承接の問題を叙述から陳述への連続性の問題に還元した。以上は、次による。
http://www.lc.osakafu-u.ac.jp/staff/noda/shiryo/modality.htm
この論争は以後文法範疇の分野で法のこととして扱われる。いわゆるムードとなるが、モダリティー論としての展開がある。述語にある文をまとめる役割は文末にあるその語を対象としていたものが、話し手の意図を表す部分としての聞き手を目当てとする用語法に集約することになったわけであるが、述語の文末詞としての認定はいまだ文とは何かを議論させることになる。
大辞泉、大辞林の解説により、陳述を見る。
構文論の基礎的な概念の一。文としてのまとまりを与える働き。いくつかの学説がある。例えば、「花が咲く」という文は、開花という事柄を表すとともに、開花の認識が、判断の形式によって述べる述語によって統一されていると考える。この用言の働きを陳述という。また、話し手の判断が言語に込められているものが陳述で、助動詞や、形としては存在しないが用言に伴うとして仮定したものに、その働きがあるとする説などがある。山田孝雄により一般化した術語。
構文論の基礎的な概念の一。「花は美しい」の文においては主概念「花」と賓概念「美しい」とを結合統一する作用が表れているが,その言語的表明を陳述と呼ぶ。もと,山田孝雄の用語。
述語は動詞からなる。そう受け止めたか、日本語文法が英語を学び始めたその時期に述語という用語は述語動詞を意味していた。しかし日本語で述語と言えば論理学で、ある命題の主語について述べられる概念とある。文法学はその扱いを受けていたので、あらためて言えば、述語が述語であるのはなぜか。つまり日本語の述語とはなにか、と言うことである。
現代中国語で述語をどのようにとらえるか、文法用語に見ると中国語辞典には述語を、 谓语wèiyǔ 谓词 ピンインwèicí 语词 ピンインyǔcí 宾词 bīncí 述语 shùyǔとなる。主語に対する客語、主辞に対する賓辞であったのだから、文法的概念としてはそのそれぞれの文法理論によるところであろう。根据《现代汉语》的定义,汉语的体词包括名词,数词,量词;汉语的谓词包括动词和形容词。
日本語の述語もそうであるが、陳述を述語の働きとして認めることによって、文のまとまりとすることがある。ひところ陳述論争があって文の成立に述語がどうかかわるかを議論していた。
山田1908:一つの句とは統覚作用の一回の活動によりて組織せられたる思想の言語上の発表をいふ。
時枝1941:詞的対象を辞の表す主体的把握が包み、統一して表現が成立すると言うこと
山田文法は統覚作用をもって統合され言表されると文が成立し、その何かについて述べるという作用を陳述とした。時枝文法は文という統一体を成立させその契機となるのは主体による陳述であるとした。これは言語過程説の詞辞の統一体となる考え方とはことなる。ここに論争の端を発し、陳述が述語にあるか、どこにあるか、多くの論争がされている。それについて渡辺氏の議論が一つの解決を与えた。
渡辺1953,1971:詞と辞の区別を「素材表示の職能」と「関係表示の職能」とに分け、時枝文法の文末辞の統一作用の内容を叙述と陳述の職能に分けて文末辞の陳述の職能を述語全体に認めた。そうすることによって助動詞の相互承接の問題を叙述から陳述への連続性の問題に還元した。以上は、次による。
http://www.lc.osakafu-u.ac.jp/staff/noda/shiryo/modality.htm
この論争は以後文法範疇の分野で法のこととして扱われる。いわゆるムードとなるが、モダリティー論としての展開がある。述語にある文をまとめる役割は文末にあるその語を対象としていたものが、話し手の意図を表す部分としての聞き手を目当てとする用語法に集約することになったわけであるが、述語の文末詞としての認定はいまだ文とは何かを議論させることになる。
大辞泉、大辞林の解説により、陳述を見る。
構文論の基礎的な概念の一。文としてのまとまりを与える働き。いくつかの学説がある。例えば、「花が咲く」という文は、開花という事柄を表すとともに、開花の認識が、判断の形式によって述べる述語によって統一されていると考える。この用言の働きを陳述という。また、話し手の判断が言語に込められているものが陳述で、助動詞や、形としては存在しないが用言に伴うとして仮定したものに、その働きがあるとする説などがある。山田孝雄により一般化した術語。
構文論の基礎的な概念の一。「花は美しい」の文においては主概念「花」と賓概念「美しい」とを結合統一する作用が表れているが,その言語的表明を陳述と呼ぶ。もと,山田孝雄の用語。